「第4章 ソウ」(6-3)
(6-3)
土曜日。
アラームをセットせずに眠ったのに社会人の習性で七時半には目が覚めてしまった。どうせなら十時ぐらいまでたっぷり眠りたかったのに変に損をした気分になった。枕元のiPhoneを手繰り寄せてあくび混じりにSNSを覗いたりして、時間を潰してから観念したように栞菜はゆっくりとベッドから起き上がった。
その場で伸びをして体を解してから、カーテンを開ける。
気持ちの良い陽差しが部屋に入って来た。思わず目を細めて頭に残っていた眠気が綺麗に蒸発した。洗面所で顔を洗って歯ブラシを終えると、キッチンのコーヒーメーカーに水を注いで、ペーパーフィルターと粉をセットする。
しばらくするとコポコポと音を立てて、コーヒーの香りが部屋に充満した。学生時代に購入したこのコーヒーメーカーとの付き合いも長い。
大切に使っている為、どこも壊れていなかった。冷蔵庫を開けて、四つパックになっているレモンヨーグルトの一つを取って、その場で食べる。
小さくてすぐに食べられるので栞菜の朝は、いつもこのヨーグルトだった。
出来立てのコーヒーをマグカップに注ぎ、冷蔵庫からミルクを取り出してほんの少し注ぐ。真っ黒のコーヒーが牛乳に反応して、薄い茶色へと変化した。
マグカップを持ってデスクまで行き、スターバックスのコースターの上に乗せてテレビを点ける。
土曜の朝のテレビは平日の朝に観ている情報番組と同じだった。ニュースに耳を傾けながら、MacBook Airの電源を入れる。
起動後、慣れた手付きでパスワードを入力して、ログインを終えるとSafariを立ち上げてインターネットへ。特に観なければいけないページもないが、癖で土日はパソコンの電源を入れてしまう。
Yahooのトップページに表示されているニュースに適当に目を向けていると、テレビから聞き取りやすい女性アナウンサーの声が響いた。
『さぁ、今日の特集は新宿のランチ特集です!』
栞菜はそれを聞いて手が止まる。キーボードから手を離して、音だけ聞いていたテレビに目を向けた。
何故だろうか? 別に新宿のランチに興味がある訳じゃないのに。
テレビに映っている若い女性タレントが美味しそうにカルボナーラを食べていた。フォークにパスタを綺麗に巻き付けて一口で頬張る。テレビを観ながら、栞菜の中には懐かしい気持ちが芽吹いていた。
懐かしい気持ちの正体はすぐに分かった。
なにせ昨日から度々、感じている。でも今更その気持ちを思い出したところで懐かしむ以外の事は出来ない。
栞菜はまだ残っていたコーヒーを飲み干して洗濯機を回した。せっかく午前中から起きているので体を動かしてそれらを忘れるつもりである。
学生時代より部屋は広くなっているが、同じく一人暮らし歴が長いのでどうすれば効率良く掃除・洗濯が出来るのかを心得ている。
テキパキとこなして洗濯物を干し終えると、情報番組は終わろうとしていた。エンディングが流れて、出演者がいつもの決まり文句「良い週末をお過ごし下さい」と笑顔で手を振っていた。
思いがけず早起きしたおかげで、面倒だった家事を片付けられた。昨日から考えていた映画を観ようか。
昨夜、駅のホームで見かけた映画のラインナップをMacBook Airで再度、確認する。上演されている映画で面白そうなのを一つ見つけた。
都合の良い上映時間を見つけてチケットを確保する。いつも映画を観る時は定期券で行ける日本橋か六本木のTOHOシネマズだった。
ところが今日は、新宿のTOHOシネマズが上映時間の都合が良かった。昼過ぎからの時間を予約して栞菜は、シャワーを浴びて身支度を整えた。
オフィスカジュアルではなく、お気に入りの私服に着替えて、化粧などのセットも行う。姿見の前に立ち、どこにも違和感がないのを確認すると、栞菜は「行ってきます」と言ってマンションを出た。
外に出ると、通勤時と同じ道を歩いているのに体が軽かった。
着ている服や持ち物が違うから? これから仕事ではなく、映画を観に行くから? きっとその両方が自分の体を軽くしていた。休日の力だなと信号待ちで実感した。
駅の改札を抜けてホームに降りる。並んでいる人はそう多くなかった。
やがて電車が到着したので車内に乗り、目の前のシートが空いていたので、腰を下ろす。ドアが閉まり、電車が新宿に向かって発車した。
地下鉄のトンネルを背景に栞菜は、バッグから文庫本を取り出した。
学生時代と比べると読書に割ける時間は格段に少なくなってしまった。通学が通勤に変わっただけで朝、電車に乗るのは同じ。それなのに朝に乗った車内で中々、ビジネスバッグから文庫本を取り出す気にはならなかった。
それよりも指先一つですぐに触れるiPhoneを操作してしまう。別に有意義な事をする訳ではない。音楽を聴きながらTwitterを開いたり、パズルゲームをしたりYoutubeを観るぐらいだ。
会社の先輩が少しでも時間を有効活用しようとオーディオブックを聴いていると話を聞いて、試してみた事もあるが朝の自分の頭では、とてもじゃないが、耳から流れてくる言葉を知識として脳に定着させる事が出来なかった。
よって社会人の栞菜が読書をするには明確に読書の時間を設ける必要がある。
だからこそ、今の時間は貴重だった。シートに座り、文庫本のページを捲る。約十五分で新宿駅には到着してしまうが、彼女は充実した読書時間を楽しんでいた。
車内のアナウンスが新宿に到着すると流れても文庫本を片付ける気にはなれなかった。良い意味でスイッチが入っていた。多くの乗換駅を読み上げる新宿のアナウンスが終わるまでに何とか、本を閉じて手に持った状態でホームへと降りた。
人の流れがそのまま改札へと向かうので一度、それから外れて文庫本をバッグへとしまう。そしてiPhoneで現在の時刻を確認する。
映画まではまだ余裕があった。どこかで時間を潰そう。
栞菜はTOHOシネマズに近い東口からではなく、南口で降りた。
慣れ親しんだ道のりを歩き、住宅街の外れにある喫茶店、グリーンドアへ到着する。スターバックスでも良かったが、土曜日のこの時間は席を確保するだけで大変だし、確保出来ても混雑しているから落ち着けない。
それに比べて閑静な住宅街にあるこの喫茶店は、土曜日でも落ち着けるのだ。
あんなに美味しいコーヒーが飲めるのに今時の子は、どうしてフラペチーノの方が好きなのだろう。損をしているなと思いつつ、グリーンドアの緑色のドアを開ける。
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