「第4章 ソウ」(6-4)
(6-4)
カランコロン。
カウベルの音が頭上で響いて優しく出迎えてくれる。その音に反応して、カウンターにいた女性店員がこちらを向いた。彼女は栞菜と目が合うと、パァッと明るい顔を見せる。
「栞菜ちゃん! いらっしゃい! 久しぶりね〜」
「こんにちは、香夏子さん」
女性店員の名前は山科 香夏子。栞菜とは顔見知りの仲である。この喫茶店には大学時代からよく通っている。家で集中が出来ない時なんかは、MacBook Airを持ち込んで、レポートを書いていた。
香夏子ともよく話すようになり、色々な事を教えてもらった。
香夏子は元々、誰もが名前を聞いた事がある上場企業に勤めていたのだがある朝、急に会社に行けなくなり仕事を辞めてしまったと言う。そして、フラッと入ったこの店のコーヒーが美味しくて、アルバイトから正社員になった。
周囲は自分が喫茶店の店員になった事に驚いて、勿体ないよと言ってきた友人が何人かいたらしいが、香夏子自身は何も後悔していない。
冷たい言い方かも知れないが人生の最終的な判断は、誰に口出しされても自分で決める。
成功しても失敗しても誰かのせいにする事なく、何もかも自分の糧となる。
それらが積み上がって自分だけの人生が作られていくのだ。
と、栞菜が就活に苦戦していた時に教えてもらった。社会人になってからは、どうしてもグリーンドアに訪れる機会は減ってしまったが、可能な限り足を運んでいる。
一度だけ、初めて訪れた相手の事を聞かれたが、曖昧に答えて以来、もう聞かれない。
「栞菜ちゃん、どこに座る?」
店内を見回すとそれ程、人は多くなかった。ただ、これから増えてくる予感はしていたので栞菜は贅沢を言わず「カウンターで」と伝えた。
「了解しました。こちらへどうぞ」
「はーい」
一人で来た時によく座っていた奥のカウンター席へ腰を下ろす。カウンターの下にある荷物棚にバッグを入れて、iPhoneと文庫本を取り出した。
お冷を持って来た香夏子にカフェラテを注文する。
この後は映画なのでお昼を注文してしまうと、時間を気にしながら食べないといけない。ここでのランチはゆっくりと楽しみたいので、今日はカフェラテで我慢する事にした。
「かしこまりました」
栞菜の注文を聞いて、香夏子は他のテーブルに呼ばれて離れて行った。カウンターに置いた文庫本を開き、電車内で止まっていた部分から読み始める。しばらく物語に浸っていると、「お待たせしました」と香夏子がカフェラテを持って来てくれた。
「ありがとうございます」
「ゆっくりしていってね」
香夏子とそんな会話を交わしてから、栞菜は運ばれたカフェラテに口を付ける。自分で作るコーヒーとは違うエスプレッソの苦味とその上の泡立てられたミルクの甘味が丁度良い具合に溶け合って口内に広がった。
栞菜はカフェラテを堪能しつつ文庫本を読む。映画の時間まで物語の世界を堪能していた。
充実した時間はあっという間に過ぎ、そろそろ映画の時間が近付いて来た。
ここから東口のTOHOシネマズに行った事は何回かあり、ルートや所要時間が栞菜の頭の中で計算される。パタンと文庫本を閉じてカフェラテを飲み干した。
イスに掛けていた上着を羽織り、カウンターに置かれた伝票を手に取る。栞菜がレジに向かうと、他の客の精算をしていた香夏子が反応する。
「あ、栞菜ちゃん。もう帰っちゃうの?」
「ええ。実はこれから映画を観に行くんです」
「そうなんだ。いいなー、昨日公開のやつ?」
「はい。また感想言いに来ますよ」
「うん、楽しみにしてる」
羨ましがられる香夏子にそう伝えて、栞菜は会計を済ませた。
「また、いつでもきてね」
「はい」
栞菜は緑色のドアを開ける。頭上で響くカウベルの優しい音が彼女を見送った。その際、入れ替わりで一人の男性が入って来た。
お互いに一瞬だけ目が合うと。会釈をして一枚のドアを譲り合う。
そう、たったそれだけの事だった。
グリーンドアを出た栞菜はTOHOシネマズに向けて足を進める。少し歩くと、土曜の新宿の通りは大勢の人で埋め尽くされていた。
カップルや友人グループ、他には土曜出勤で頑張っているビジネスマンの姿もあった。世間が休みとなっているのに働く事の違和感と闘っている彼らに尊敬の念を抱く。途中、一つの横断歩道に捕まった。
足が止まった栞菜はバッグからiPhoneを取り出す。思ったより道は混んでいるけど、時間には走る程ではない。
栞菜がそう考えていた、まさにその時。
ビュウッと、正面から風が吹いた。
また反射的に目をつむる。僅か数秒の視界の遮断、まばたきより多少長い暗転を終えて、視界を開ける。すると、ついさっきグリーンドアですれ違った男性が頭に浮かんだ。一瞬しか見ていない相手の顔なんて普通は忘れるものなのに何故だろうか。自分でも不思議に思うくらい残っていた。
以前に何処かで会った? 同じ歳くらいの男性、接点があるとしたら会社関係が一番可能性が高いが……。いくら考えても誰か分からなかった。
それなのに顔は確実に知っている。喉に引っ掛かった奇妙な感じだった。
まるで誰かに時間切れと言われているかのように信号が青になった。信号機の音と待っていた人々が一斉に足を進めるので栞菜もつられて進む。
思い出せないという事は、所詮それまでの事だ。本当に必要だったら、すぐに思い出している。大人になってくると何かちょっとした引っ掛かりがあっても時間をかけずに忘れる力を得る。
時間の使い方が上手になったのか、単に諦めが早くなったのか。
おそらくその両方だろう。そんな事を考えながら、栞菜は横断歩道を歩く。
すると、再びビュウッと今度は後方から風が吹いた。
その風が今度は栞菜の背中を突き抜けて、脳の中にまでに入ってくる。忘れかけていた古い記憶を掘り起こして、掻き乱してきた。
それは昨夜ホームで受けた時の比ではなかった。
その衝撃に栞菜は横断歩道を真ん中で立ち止まってしまう。
「あっ……!」
頭の中にあった全ての点が一本の線として繋がった瞬間だった。
栞菜は勢いよく振り返る。横断歩道の真ん中で急に振り返ったので、後ろを歩いていた女子高生に怪訝な顔を向けられた。彼女に頭を下げてから、栞菜は来た道を一目散に駆け出した。
今度こそ、後悔しないように――。
ホワイトカプセル・サテライト(了)
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