「第4章 ソウ」(5-4)
(5-4)
カウンターのイスから立ち上がり、バッグを持ち上着を羽織ると、伝票を持ってレジへ向かう。栞菜がレジに向かうとそれに反応して、「はーい」と女性店員が対応してくれた。
「宇治抹茶ラテもクラブハウスサンドも美味しかったです」
「ありがとう。またいつでも食べにきてね」
「はい、また来ます」
彼女とそんな話をして、栞菜は緑色のドアを開ける。
カランコロンと上部のカウベルが鳴り、外の空気が頬に当たり風を感じた。空の半分は夕焼けから夜へと変わっており、遠くのドコモタワーは点灯していた。
栞菜は店から少し離れた場所で立ち止まる。
この場所にとうふは来なかった。とすると、もう一つの可能性として考えられるのは、西口のスターバックス。元々、二択しかないのだから、片方が外れた場合はもう片方しかない。それが判明しただけの事だ。悲しむ必要はない。
栞菜は次に向かう場所を決めて足を動かした。絶え間なく大勢の人が歩く新宿は夜になると、いっそう増えたような気がした。着いた時には準備中だった居酒屋の看板は営業中となり、メニューを持った客引きが視界に映る。
ここから西口へと向かう道はそこまで危険ではないが、栞菜は少しだけ早歩きになる。そして出来るだけ人が大勢歩いている道を選んだ。
交差点で信号を待っていると、次第に栞菜の心に潜んでいた緊張が顔を出す。
スターバックスにいてもいなくても結論が出てしまうからだ。
栞菜は何度も足を止めそうになったけど、それでも負けなかった。
少し大回りして新宿駅まで戻って来た栞菜は、ヨドバシカメラに沿って歩く。あと五分以内で到着する。下げていた視線を上げると、見慣れた丸い緑色のスターバックスの看板があった。彼がどこに座っているか。カウンターなら外からでも確認出来るけど、奥のテーブル席へ座られると中に入るしかない。
まずは、道路を歩きながら外から確認しよう。
栞菜がそう考えた、まさにその時だった。スターバックスの透明な重いドアが開いて一人の客が出て来る。その顔を見た瞬間、栞菜はハッとした。
とうふだ。
一回、会っただけなのに遠くからでも彼の顔はハッキリと分かった。やっぱり、こっちに来ていたのか。彼の姿を見つけて潜んでいた緊張が崩れていく。
まだ向こうには気付かれていない。
駆け寄って声を掛けよう。右足に力が入り大きく一歩を踏む。しかし、そこで急ブレーキがかかった。開いたドアからもう一人、客が出て来たからだ。
出て来た客は女子高生で仲良さそうにとうふと会話をしていた。話し声までは街の喧騒に消されて聞こえない。でも表情や仕草から二人の親密さは窺えた。
急栞菜はすぐに近くのビルに体を隠した。向こうはそのままスターバックスから離れて新宿駅へと向かった。
二人が通り過ぎるのを待っていると心臓が宙に浮いたような、そんな不思議な感覚に陥った。彼らが通り過ぎたのを見計らってビルから出る。
通りに出て振り返ると、二人は駅に向かって歩いていた。
歩いている人々にどれだけ混ざろうとも、栞菜の目にハッキリと映った。信号を渡り右に曲がった彼らが見えなくなり、栞菜を纏っていた様々な感情が口からため息となって吐き出た。
「ふぅー」
口から吐き出た息では足りず深呼吸をして、ようやく落ち着いた。体を反転させて新宿駅へと向かう。二人が新宿駅には行っていないので、安心して足を進められた。
改札を抜けて、ホームへと上がる。到着していた中央線に乗ってシートに腰を下ろした。彼女が乗るとすぐにドアが閉まり、電車が発車する。
流れる景色を数秒見てから、カッと耳が赤くなった栞菜は羞恥に堪えながら、逃げるように顔を下にした。落ち着いたと思っていたのに、そうではなかったらしい。
全部、独りよがりで自己中心的な考えだった。
チャットリストからソウの名前が消えたところで、予約してしまった居酒屋に一人で行くとうふではなかった。ちゃんと別の相手が存在するのだ。
恥ずかしい! 恥ずかしい! 恥ずかしい!
今日まで耽っていた自分の言動の何もかもを思い出して、恥ずかしさが加速する。何を一人で舞い上がっていたのか、自分が彼の世界の中心のつもりでいたのか。
やがて頭の先から羞恥を洗い流し終えて、御茶ノ水に到着する頃には、熱を帯びた頬はどうにか引いてくれた。
御茶ノ水駅の改札を通ってマンションまで一直線に帰る。
どこかで何かを買わないと冷蔵庫には何もない。その事を途中で思い出したが、引き返すのが面倒で取り敢えずは帰ろうと足を進めた。
エントランスのオートロックを開けて、七階の部屋に到着すると玄関のドアを開ける。ドアを開けて中に入ると、電車で全て洗い流したはずの羞恥が微かに残っていた。
洗面所で手洗い・うがいを済ませて、洗濯物を取り込み、ベッドに放り投げると、そのまま自分も倒れ込んだ。ベッドに疲れた体を預けていると、最後の羞恥は抜けて、代わりに眠気が襲って来た。今日一日の心の変化にきっと体が疲れたんだろう。栞菜は、逆らわずそのまま眠った。
「――んっ、」
栞菜の目覚めたのは、それから二時間後だった。時刻は二十一時を超えていた。
ぼんやりとした頭を起動してゆっくりと上半身を起こす。
電気が点けっぱなしでカーテンが開けっぱなしの部屋。寝ぼけながら、エアコンのスイッチは入れたらしく、部屋は乾燥気味で喉が痛かった。
そうか。私、あの後ずっと寝ちゃったんだ。
帰って来てからの事を起動直後の頭で思い出す。栞菜はベッドから起き上がり、冷蔵庫から500mlの水のペットボトルを取り出して乾いた喉を潤した。口内から入る冷たい水分が栞菜の頭を正常稼働させた。
水のペットボトルを飲み干すと、キッチンに置いてベランダの窓を開けてみる。窓の外からの風は、昼間とまた違った形をしていて、栞菜の頬に当たる。
少しの間、目を閉じて風を感じた。
「すぅ――、はぁ〜」
静かに目を開いて栞菜は窓を閉めた。これでメンテナンスは完了だ。
解決すると、今度はお腹が減って来る。食べたのが遅かったとは言っても、クラブハウスサンドを食べてから、結構時間が経っている。
幸い、眠ったおかげで体は回復しているし、駅前とは言わなくてもスーパー程度なら行ける。栞菜はバッグから財布を取りエコバッグに入れて再び外に出た。マンションのエントラスを出て道路を歩く。
スーパーはこの時間でもまだ開いている。水を取る際に冷蔵庫を確認したら、夕食以外にも色々とない物があった。
この時間から料理をする気にはなれないので惣菜を買おう。
栞菜は、そう決めてスーパーまでの道を歩く。びゅうっと吹いた夜風に当たりながら歩くスーパーまでの道のりはとても心が穏やかになった。
途中、赤信号待ちで栞菜の足が止まった。新宿のように人はいない土曜の夜の住宅街。その赤信号。栞菜は信号を待っている間、ポケットからiPhoneとイヤホンを取り出した。イヤホンを耳に挿れて、コードをiPhoneのジャックに挿す。
ミュージックアプリのプレイリストからお気に入りの音楽を再生する。両耳から音楽が流れて、栞菜の土曜日を良いものへと作り替えてくれる。まだ信号は赤い。
待っている間、彼女はiPhoneを操作してホーム画面から、ホワイトカプセル・サテライトを削除した。
栞菜の指に従って、いとも簡単に削除されたアプリ。これで本当に解決した。
そう思った時に丁度、信号が青になった。
栞菜は本来の日常を過ごし始めた。
そして、五年の年月が過ぎた。
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