「第1章 灰色のフィルターがかかったような毎日」 (4-4)
「ご飯も食べたし。一息ついたね。これからどうしようか?」
「そうですねー」
会って話をして、買い物をして、昼食を食べる。
本来予定していた以上のイベントを全部消化していた。この後の予定は全く日向にはない。それなのに時間はまだ余裕がある。
「どこか行きたい所とかありますか?」
「うーん」
日向が尋ねると、ソウは首を傾けて考える。考えるという事は即答で行きたい場所がある訳ではないという事。彼はそう考えて思考を巡らせた。
今度は自分からどこかを提案出来ればと。
やがて一つの場所を思い付いた。
「そうだ、新宿御苑とかはどうですか?」
「新宿御苑!? 良いかも。実は行った事なくて行ってみたかったんだ!」
日向の提案にソウは予想外に乗ってくれた。彼女が一度も行った事がないのというのは、驚きだった。てっきり新宿御苑なんて何度も行っていると思った。
行った事ないなら、丁度良い。
「俺も行ったのは数回ですけど、いつ行ってもあそこは良いですよ。だけど、十六時までだったはずだから、すぐに行きましょうか」
「あ、そうなんだ。だったら早く行こう」
二人は荷物を纏めて立ち上がり、伝票を持ってレジで会計を済ませた。
別々に会計を済ませる最中、ソウがお金を受け取る。
「クラブハウスサンド美味しかったです。勿論、コーヒーも。また来ますね」
「ありがとうございます。またいつでもお越し下さい」
ただのお金のやり取りに一言、味の感想を添える。そのちょっとした会話が大人っぽくて格好良く見えた。ソウが支払いを終えたので、今度は日向の番。オムライスセットの料金を払い、お釣りを受け取る時に口を開いた。
「オムライスも美味しかったです。また来ます」
「ふふふ。ありがとうございます。お待ちしております」
普段の日向では言えない味の感想を伝えると、彼女は微笑んで返してくれた。
二人がそれぞれに会計を終えて、緑色のドアを開ける。
カランコロン。
入った時と同じカウベルの優しい音が頭上に響いた。
外に出ると、店内の雰囲気から新宿の雰囲気に戻る。車の音や乾いた風を感じる。えっと、新宿御苑へ行くには……。
頭の中で地図を開いて、新宿御苑への道順を考えて、足を進ませた。
今度は自分がソウを先導するのだ。密かにそんな気持ちが日向にはあった。
「新宿御苑はこっちですね。行きましょう」
ソウに向かってそう話すと彼女はiPhoneを操作していた。その文面に夢中でこの声が届いていないようだった。
「ソウさん?」
日向に名前を呼ばれて、ソウがハッとする。iPhoneから視線を外した。
「あ、ごめん。うん、それじゃ行こうか」
「大丈夫ですか? 何か急ぎの用なら、」
「ううん。全然大丈夫。ちょっとメールを返してて」
笑顔で大丈夫だと返すソウ。彼女は時折メールをしている。相手が誰かは知らないが、操作している時はいずれも深刻そうな顔をしていた。
本当にこの後、新宿御苑に行っても平気なのだろうか。
そんな疑問が頭に浮かぶ。そんな日向の考えを読み取ったようにソウは「大丈夫だって、」と彼の肩をポンッと叩く。
「平気平気。ちょっとメールが長引いてて。別に時間とかは大丈夫だから」
「分かりました。だけど、無理そうだったらいつでも言ってください」
「うん」
確認を取って二人はあらためて新宿御苑へと向かう。
土曜日の午後。それだけで新宿御苑の新宿門前には大勢の人がいた。首からカメラを下げた外国人観光客も多い。蛇のように券売機まで続く列を見て、ソウが「うわっ! 凄い人!」と驚いていた。
「土曜日のこの時間ですからね。やっぱり人は多いです。でも列はちゃんと進んでますし。並んでいればすぐに入れますよ」
「よし、並びますか」
二人が混ざった列は順調に進んで券売機の前に到着した。学生を二枚分購入して、ゲートを通る。
ゲートを通ると、新宿に作られた雄大な自然にソウが足を止めた。
「凄いねー。こんなに大きいんだ」
「そうですね。都会にこんなに大きいのを作るなんて」
パンフレットを取り、二人は順路に沿って道を歩く。背の高い針葉樹の向こうにドコモタワーが見えると、自然と人工物が合わさって何とも不思議な気分になる。
「こんなに大きな自然の中を歩いていると落ち着くね。空気も綺麗だし」
「はい。まあ人は多いですけど」
隣を歩くソウの前後はあちこちに人がいる。写真を撮ったりベンチに座ったり、各々の楽しみ方で満喫していた。
「本当だね。いつもこんな感じ?」
「俺が前に来た時は平日だったので、今日に比べると人は少なかったですね」
「そっか。次は平日に来ようかな」
二人は新宿門から入って、千駄ヶ谷門まで歩くコースを取った。少し歩くが食後の腹ごなしには丁度良かった。
途中で空いているベンチを見つけたので腰を下ろして、一旦休憩とした。
「ふぅ。結構歩いたねー」
「確かに。いつの間にか結構歩いてました」
ベンチに腰を下ろすと、足が楽になる事から、それまでの歩き疲れを実感する。時刻は十五時を過ぎた。吹く風に木々の葉が揺れて優しく変換された風が日向の頬に当たった。
全体的に落ち着く雰囲気が出来上がっていた。
日差しの陽気と疲れ。そしてこの雰囲気が次第に眠気を連れて来る。
「眠い?」
「あ、いや! そんな事は……、」
ソウに聞かれて慌てて否定したが、彼女にはすっかり見破られていた。
「無理しなくて大丈夫だよ。さっきから目がトロンってしてるもん」
「あー」
バレてしまっている事が恥ずかしくて、日向の耳の体温が上がった。
「やっぱり寝不足だよね。毎晩、チャットしてると」
「いつもはこんな事はないですけど……」
ソウが出してくれた助け舟に乗る形で日向は、頷いて答える。
「やっぱり今日の事で緊張してた?」
「そりゃしますよ。一体、どんな人なんだろう? 怖い人だったらどうしようって、新宿に向かう電車から緊張してました」
「あっ、そうなんだ」
日向の告白に意外そうな表情を見せるソウ。どうやら彼女は違うらしい。
「実際、待ち合わせのスターバックスへ行く足取りは重かったですね」
数時間前の出来事が、まるで数日前のように感じる。あそこまで緊張したのは本当に久しぶりで、過ぎてしまった今だからこそ笑い話だが、もう一度体験したいかと問われると、答えは決まっている。
そう日向が考えていると、ソウが「私は楽しみだったよ」と答えた。
「楽しみ?」
自分とは真逆の答えに日向は聞き返す。するとソウは真っ直ぐに「うん」と頷いた。
「いつもDMとチャットでしか話せないけど、どんな考えの人なのかは分かっていたし、直に会ったらもっと色々な話が出来るだろうなって思ってたから」
「……ありがとうございます」
ソウは、チャットで話している事がずっとプラスになっていた。大体の考え方まで把握して、会ったら色々な話が出来るだろうなとさえ思われていた。
信用してくれた彼女と自分とのギャップに日向は、ひどく申し訳ない気持ちになった。その事を謝罪しよう。そう思って口を開く。
しかし、彼が声を出すより前にソウの方が先に「あっ、」と声を出した。
ソウはスカートのポケットに入れていたiPhoneを取り出す。横からディスプレイがチラリと視界に入った。どうやらメールが届いたようだ。
おそらく今日一日を通して相手は同じだ。
日向は視線を彼女から外して、配慮する。横で手が動いてiPhoneを操作しているのは伝わってきた。今までのようにしばらくすればまた会話に戻ってくる。
そう考えていたが今回は違った。
「とうふ君、ごめんね。ちょっと電話してきていい?」
「勿論です。どうぞどうぞ」
「ありがとう。すぐに済むから」
伺いを立てられて日向は頷いた。彼が了承すると、彼女はすぐにベンチから立ち上がった。彼女が立ち上がった事で出来た空間から流れて来る風は他の風と違って変な感じがした。
立ち上がったソウは順路から外れて、針葉樹の傍まで行った。軽く小走りだったのが、今日一日ずっと余裕があった彼女が見せる初めての動作だった。
日向から離れて、でも見える位置でソウは電話を掛けていた。
数メートルの距離。室内でもないので当然、ソウが何を話しているのかこちらには、聞こえない。時折、心配そうに視線を送る彼女と目が合ってしまう。
変な気を遣わせても悪いと思って彼は、自分のiPhoneを取り出した。
何かをやっていた方が向こうも気楽なはずだ。そう考えてSafariを開き、ネットを巡回してソウの戻りを待つ。電話をしてるからそれなりに時間はかかると予想してた。彼女が戻って来たのは、十分程してからだった。
「ごめんごめん。遅くなっちゃって」
頭上から降って来るソウの声に反応して、日向は顔を上げる。
「俺の事は気にしないで下さい。それより電話は大丈夫ですか?」
「うん。すぐに終わると思ったけど、案外かかっちゃった。でもこれで、本当に平気だから」
少し困ったように笑うソウ。これ以上、この話を続けても意味はない。日向は「えっと、」と話題を変更する。
「この後、どうしましょう? ベンチで結構休んだので、当初の予定通り千駄ヶ谷まで歩きます? それとも新宿まで戻ります?」
「このまま千駄ヶ谷門まで行こうよ。それで千駄ヶ谷駅で解散にしよう」
解散という具体的な言葉を聞いてから、明確に終わりに向かって動き始めた。
「分かりました。今日は沢山、話せたし。楽しかったです」
「それは良かった。私も今日は楽しかったよ」
まるで何かの答え合わせをするように互いに言い合って、日向はベンチから立ち上がる。それから順路を歩いて、千駄ヶ谷門を目指した。千駄ヶ谷門から新宿御苑を出て、そのまま駅へと進む。その間、会話らしい会話はなかった。
千駄ヶ谷駅に到着して改札を通り、互いに同じ路線の電車に乗った。車内は混んでいて、シートは空いていなかったので二人とも立っていた。
電車が発車して、窓の外に映る景色が移動する。新宿から離れた事で今日の非日常が少しずつ溶けて元の日常が帰って来た気がした。
水道橋駅に電車が超えると、ソウが口を開く。
「私、次の御茶ノ水駅で降りるね」
「了解です」
新宿御苑以降に聞いた久しぶりのソウの声。言われて初めて彼女がどこで降りるか聞いていなかった事実を知った。
降りる駅が判明した事で不透明だった彼女との別れが鮮明に可視化された気がして、日向は口を開く。
「今日は会えて嬉しかったです。本当に」
「うん、ありがとう。私も嬉しかった」
新宿御苑でも言った感謝の言葉。だが言っている場所が違う事で、意味合いが僅かに異なる。
そんな日向の感謝にソウが笑顔で返してくれた。
電車は御茶ノ水駅に到着した。車内に響くアナウンスに反応して、ドアが開き大勢の乗客が乗り降りする。元々、二人が立っていたドア付近には乗客の列が形成されていた。
「シート空いたよ」
近くの学生が立ち上がった事で、日向の前のシートが空いた。ソウに言われて彼はシートに腰を下ろす。彼女は列に並んでいた。
「じゃあ、また今度」
振り返ってソウに言われた。今度という言葉が日向は嬉しかった。
「はい。また今度」
日向の言葉がソウの耳に届き、彼女は手を振って応える。彼も手を振り返す。列はそのままホームへと流されていった。
日向は振り返ってホームに降りたソウを目で追う。
ホームに降りた彼女はこちらを見る事なく、改札へ続く階段を上がっていた。その様子は日向が一緒にいた彼女の姿ではなく、知らない彼女だった。
乗客の乗り降りが終わり、ドアが閉まる。
またゆっくりと電車は発車した。
まるで一本の映画を観終わったような感覚に日向は襲われていた。
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