「第4章 ソウ」(5-2)

(5-2) 


 数分その場に立っていると、手に持っていたiPhoneが振動した。

 反射的に体がビクッと震えた。また兄から? おそるおそるディスプレイを見ると由香からのLINEだった。


 由香:『どこ? もしかしてまだ、講義室に着いてない?』


 彼女からのLINEを見て固まっていた体が動くようになった。


 栞菜:『ごめん。電話が長引いちゃって、今向かってる』


 由香:『オッケー。レジュメ確保しておくね』


 栞菜:『ありがとう』


 栞菜は早歩きで講義室へ向かった。講義室後方のいつものイスに由香は座っていた。テーブルには彼女のお気に入りのリプトンのピーチティーが置かれていた。


 講師は既にホワイトボードの前にいるが、まだ何も書いていなかった。良かった、ギリギリ間に合ったようだ。

 由香に「ありがとう」と小さく礼を言って、栞菜は彼女の隣に座る。


 バッグからルーズリーフと筆記用具を取り出して、レジュメと一緒にテーブルに並べた。


 講師がPCとプロジェクターを繋いで、レジュメに沿って講義が始めた。


 栞菜は開始早々iPhoneを取り出して、テーブルの下で操作した。隣の由香はプロジェクターに目線を向けていて、気付いる様子はなかった。


 ホーム画面に並ぶアプリから、ホワイトカプセル・サテライトを選択して起動する。元々、入力されているIDとパスワード、それを確認してからログインボタンを押す。すると【ログイン中……】と文字が表示される。


 早く彼に伝えなきゃっっ!!


 祈るような気持ちでログインを待っていたが、表示されたのは【このIDは削除されています】と無機質なメッセージだった。


 兄がもう削除してしまったのだ。

 どうしようもない事実が、見えない壁となって、栞菜の目の前に現れる。同時に以前に聞いた事を思い出した。


 ホワイトカプセル・サテライトは、匿名性のチャットアプリ。

 ログイン後のチャットルームはランダムで決められる。その為、一度入ったチャットルームから退出した場合は、基本的にもう入れず、メンバーとのチャットも不可能。


 チャットルームに個別の番号等はなく、検索する手段もない。

 当然とうふにDMは送れない。打つ手がない、完全に終わった。


 力が抜けて手からiPhoneがすべり落ちた。

 ゴトっと音を立てて、iPhoneが座っていたイスの下に落ちる。講師や周囲が音に反応してこちらを向いた。


 栞菜は謝罪の言葉代わりに頭を下げた。周囲は再び、授業へと戻る。明日が彼との食事なのによりによって今日消さなくてもいいじゃないか。


 栞菜の頭を巡ったのは、どうしようもない事に対する嘆きだった。


 大学の講義が終わり、栞菜は由香と別れてマンションに帰って来る。手洗い・うがいを済ませて、デスク前のイスに力なく座り込んだ。


 iPhoneを操作して、ホーム画面に並ぶホワイトカプセル・サテライトを起動する。いつもと同じ既にフォームに記憶されているIDとパスワードを再入力してログインボタンを選択する。


【ログイン中……】の文字が出て、その後に表示されるのは、先程と同じ【このIDは削除されています】とメッセージだった。


「はぁ〜」


 無駄だと分かっていても試さずにはいられなかった。当たり前だが大学だろうがマンションだろうが、ログインするのに場所は関係ない。


 チャットメンバーは突然、ソウがいなくなったらどう感じるだろうか?


 ビキは悲しんでくれるかな。ポーは社会人だし何かを察して深くは詮索しないでくれるかな。そしてとうふは……、怒るかな。


 頭の中でチャットメンバーの反応を予想する。今日の二十三時まではチャットルームに入れないので、皆はその時に初めて気付く。

 iPhoneのディスプレイ上部に表示されている時刻は、現在十八時過ぎ。あと、約五時間。


 システム上、チャットルームのサイドバーにいないソウの代わりに新しいメンバーが補充される。

 匿名のチャットアプリなんて、そんなものだと割り切ってくれるだろうか。栞菜としてはそっちの方が有難かった。


 ソウの事なんて綺麗サッパリ忘れてくれていい。ちゃんとした別れも言えずに消えてしまった栞菜に出来る事は、そう願うだけである。


 そして、いっそ来なければいいとさえ思っていた土曜日がやって来た。


 土曜日の朝。


 栞菜は、八時に目が覚めた。何もない日は体の睡眠欲に身を任せて、iPhoneのアラームも消して、寝たいだけ寝るのに今朝は八時に体が勝手に覚醒した。目を覚ました栞菜は、枕元に置いたiPhoneを手に取る。


 しばらく天気やLINEを見たりして時間を潰した。触っていたら段々と眠くなって来るかと思ったが、そんな事はなく最初の覚醒から下がらなかった。


「起きるしかないか、」


 諦めにも似た独り言を呟いて、栞菜は体を起こす。今日はとうふとの夕食があったので何も予定を入れていない。

 今から予定を入れてもいいのだが、どうもやる気が起きない。


 取り敢えず、早起きを活かして家事を片付けようと栞菜はベッドから出て、洗濯と掃除を済ませる。耳にカナル型のイヤホンをしてiPhoneでラジオを聴きながら、体を動かした。余計な事を考えないようにする為だ。


 一人暮らしの部屋の掃除なんて、すぐに終わる。栞菜は風呂・トイレ・部屋の掃除を全部終わらせて、洗濯物も外に干した。掃除を一通りを終わらせるとまだ朝食を食べていない事に気付く。


 友達とヨドバシカメラで買ったコーヒーメーカーにお湯とペーパーフィルターをセットする。戸棚から粉を取り出して、フィルターに入れてボタンを押す。コポコポと音を立てて、コーヒーが用意されていく。


 部屋が美味しいコーヒーの香りで満ちていく。

 コーヒーメーカーを買って正解だった。QOLが上がるとお勧めしてくれた由香と菜穂子に感謝している。


 冷蔵庫にあった卵で目玉焼き、それとベーコンを焼いた。一緒に焼くとベーコンの油が目玉焼きに染み込んで美味しくなる。同時にトースターで食パンを焼いた。栞菜はテキパキと手際良く料理をして朝食をトレーに載せる。

 ベーコンエッグと焼いた食パン。四つパックになっているレモンヨーグルトの内の一つ。そしてコーヒー。


 平日はここまで料理はせず、シリアルだけで終わらせてしまう事も多い。せっかく食材を買っても腐らせてしまう。なので、休日の朝はちゃんと作るようにしていた。朝食を乗せたトレーを持って、テレビ前のローテーブルへ。


リモコンでテレビを点けてチャンネルを土曜の午前中から放送している情報番組へ合わせる。


 一週間に起きたニュースがダイジェストで放送されているのを、朝食を食べながら眺める。ベーコンエッグとヨーグルトを食べ終えて、コーヒーを飲んでいる時にニュースが終わり、新宿のランチ特集になった。


 咄嗟にリモコンに手が伸びるが、そこから先の行動には起こせなかった。特集では、栞菜と同じ年齢のモデルが美味しそうにカルボナーラを食べていた。彼女の笑顔から視線を外して、コーヒーに口を付ける。


 とうふとはもう連絡は付かないし、どこの店に行くかも知らない。

 それ以前に待ち合わせ場すら決めていない。今更後悔してももうどうしようもない。和風の個室居酒屋なんて新宿に何軒あるか分からない。


 第一、予約しているとうふの本名を栞菜は知らない。仮に新宿中のお店に電話をかけても名前が分からなければ、捕まえられない。昨日、それは何度も考えた。


 食べ終えたトレーをキッチンに運んで皿を洗う。洗い終えたら水切りラックに乗せた。まだコーヒーメーカーに残っていたコーヒーをマグカップに足しておく。冷蔵庫から牛乳を取り出してコーヒーに加えた。


 テレビを消して、デスクのスターバックスのコースターに乗せる。MacBook Airの電源を点けた。特にやる事もなく、インターネットを巡回する。


 YouTubeを観たりAmazon Primeで途中まで観ていた映画の続きを観たりして時間を消費した。


映画を観終えると、時刻は十四時半を過ぎていた。いつの間にか一日の半分以上が終わった。昨日まで来なければいいと願っていた土曜日。


いざ訪れると、こんなにも早く時間が流れていく。


 一日の進み方はどんな日でも変わらなかった。自分自身の感じ方が全てなのだ。栞菜はそう考えて、デスク前のイスから立ち上がり、ベランダの窓を開ける。

 栞菜の部屋は南向きのワンルーム。七階にあるので日陰もなく、干した洗濯物が太陽の光と風を目一杯受けていた。


 夏の香りが少し混ざった風が洗濯物の柔軟剤の香りとぶつかって、栞菜の頬に当たる。このまま家に引きこもっていても意味がない。段々とそんな気がしてきた。せっかく早く起きて、家事も終わらせているのだ。


「よしっ、」


 部屋の中で誰も聞かれない小さな決意を口にした。後は行動あるのみ。窓を閉めて、残り四分の一程残っているコーヒーを一気に飲み干した。

 キッチンでそれを洗ってから、食べたお皿と同じく水切りラックへ。


 それからシャワーを浴びて身支度を済ませた。部屋に置いているお気に入りの姿見で全身をチェック。問題がないのを確認して栞菜は玄関のドアを開けた。

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