「第4章 ソウ」(5-1)
(5-1)
金曜日の昼の事だった。
栞菜は大学の食堂で友達の由香と二人でランチを食べていた。
多くの学生で賑わいガヤガヤとした食堂で、注文した料理を載せたトレーを持って席を確保出来た。座れない事もあるので、由香と座れた事を喜んだ。
今日は午後に残り二限講義が入っている。それが終わればいよいよ明日はとうふとの夕食だった。
兄を介する事のないとうふとの夕食。今から緊張している。
由香と昨日のドラマの話をしながら、頭の片隅で明日の事を考えていた。
「あ、栞菜。携帯鳴ってるよ?」
向かい側の席に座っていた由香がテーブルに置いていた栞菜のiPhoneの振動を教えてくれた。
「本当だ」
言われた通りiPhoneを手に取ると、ディスプレイに表示されていたのは、兄の名前だった。瞬間的に嫌な予感がして、背中がゾワっとする。
「出ないの?」
「あー、うん。食べ終わったらこっちから掛け直すよ」
iPhoneをカバンにしまって、目に入らないようにする。
そして二人のランチを再開した。午前中の講義や昨日のドラマの話で再び由香と盛り上がる。ランチを食べ終えると午後の講義まで二十分程の猶予があった。
いつもは十分前まで由香と話している。しかし、今日は時間が経過する毎に先程の兄からの電話が頭にこびり付いていた。
それが段々膨らんで我慢出来ず、会話を折って由香に手を合わせた。
「ごめん。さっきの電話、掛け直してきていい?」
「いいよ。じゃあ私、先にコンビニでリプトン買って、そのまま講義室行ってる。いつもの席取っとくね?」
「ごめんね、ありがとう」
由香と別れて一人になった栞菜は、食堂から少し歩いて周囲の人が減った場所で兄に折り返し電話をかけた。兄はすぐに電話に出た。
「もしもし。お兄ちゃん?」
「栞菜か、久しぶり。いきなり電話して悪かった。今、平気か?」
「大丈夫」
「東京の生活はどうだ? 上手くやれてるか?」
「うん。上手くやれてるよ」
何かこちらの出方を窺うような話し方をする兄に妙な緊張を覚える。
そもそも兄は何か用事がないと電話をかけてこない。金曜の昼間にわざわざ雑談をするタイプではない。
向こうから切り出すのを待っていると、講義が始まってしまう。
「えっと、何か用事?」
「ああ。実は、栞菜に聞きたい事があるんだ」
「なに?」
「……前にチャットアプリと人に会ってくれと頼んだ事があるだろう?」
「あぁ、うん。あったね、そんな事」
まるで今の今まで忘れていたようなトーンで返す。まさか自分が現在進行形でログインしており、明日の夜にはその内一人のメンバーと食事に行くとは夢にも思っていないだろう。
「あれは本当に感謝してる。色々と迷惑を掛けて悪かった」
「それはもう本当にいいよ」
何度も聞いた感謝にあらためて返事をする。
「それでな前にも話したけど、あのアプリは削除したんだよ」
「言ってたね。消したって」
忘れる訳がない。兄が消したからこそ、今自分が使えているのだから。
栞菜がそう思っていると、兄は衝撃の一言を発する。
「実はな。この間、職業訓練学校の帰りに懐かしくなって、もう一回ダウンロードしたんだ」
「そ、そう……なんだ」
栞菜の心臓の鼓動が大きくなる。必死に平静を装ったけど、不自然だったかも知れない。
「アプリを消してもアカウントの登録情報までは消してなかったからさ。IDとパスワードを入力すれば、すぐにログイン出来ると思ったんだ」
「うん、」
「そしたら、ログインが出来ないって警告メッセージが表示されたんだ。二重ログインになってるらしい」
二重ログイン。おそらく栞菜がログインしている時間にログインしようとしたのだろう。いや、それは当たり前か。利用時間が決まっているアプリだ。
だとしたら兄には覗き見モードとならないのか?
実際に覗き見モードでログインされると、記録が見られてしまうので、栞菜としてはとても困る。
それを確かめたい気持ちからも栞菜の口が動いた。
「確か覗き見モードってなかった? あれでログイン出来ないの?」
「あれはアカウント毎に一つの端末しか使えないんだ。最初に栞菜のiPhoneで登録しちゃったからもう無理」
「そうなんだ」
ログインされてやり取りを見られていない事が分かり、栞菜は内心ホッとする。
「それで栞菜、あれからあのアプリを使った事があるか?」
「いや、ないよ」
「本当に?」
「本当に」
電話越しとは言っても兄に詰められた栞菜は嘘をついて逃れた。もし顔を合わせて直接聞かれていたら、顔に出ていたかも知れない。電話越しで本当に助かった。
「そうか。栞菜じゃないとすると、前回ログインしたままで変な消し方でもしたかな」
「そうなんじゃない?」
兄が浮かんだ考えにそっと背中を押した。
「了解。ごめんな、いきなり電話しちゃって」
「ううん、大丈夫。スッキリしたなら良かった」
スッキリしたのは、疑いが晴れた栞菜も同じだった。そう思っていると、兄は無情な一言を振り下ろした。
「取り敢えず、あのアカウントは完全に削除して新しいのを作り直すかぁー」
「えっ?」
「どうした?」
咄嗟に驚きの声が口から出てしまい、それを兄に拾われてしまう。
「ううん。作り直せるんだって思ったから」
「アカウントがログイン出来なくなったら、すぐに作り直せるんだ。一から作るのはちょっと面倒だけど」
「ふーん」
栞菜がそう答えると、大学のチャイムが鳴った。
「おっ、懐かしい。次の講義が始まるみたいだな、もう電話切るよ。急に電話して悪かった、講義頑張って」
「あっ、うん。ありがとう」
栞菜が何かを言う前に兄からそう言われて、通話が切られた。
知らない間に昼休みの喧騒がなくなっていた。
あちこちの教室から講義が始まった空気がした。栞菜も早く講義室に行かないといけない。頭では分かっているのに体が上手く動かなかった。
兄から言われた言葉の重さをまだ受け止め切れていない。
アカウントを削除。どうしよう? 今の電話で全部を話せば良かったのか?
でも話したところで……。
様々な考えが栞菜の脳内を駆け巡る。
どうすれば正解だったのかをひたすら考えて、何かを浮かべてはすぐに否定していた。
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