「第4章 ソウ」(2-1)
(2-1)
物音を立てない兄とお芝居をするような両親との暮らし。
それが栞菜には苦痛で仕方なかった。その苦痛は次第に、兄から離れたいという気持ちへ変わり、最終的に東京の大学へと第一志望を変えるまでになった。
当初は地元の国公立大学を志望していた栞菜が東京の大学へと進路を変更した事は周囲を驚かせた。特に驚いたのは両親。初めて告げた日には、信じられないと言った顔を向けられたのを覚えている。
「どうして東京なの? 友達と地元の大学に行くって勉強頑張ってたじゃない」
「……もしかして、お兄ちゃんに何か言われたのか?」
両親揃って検討違いの事を言われる。ハッキリと違うと言い返した。
「お兄ちゃんからは何も言われていない。大学生になったら、この家から離れて一人暮らしたいと思ったの。今、この家にいるのがとても辛いから」
この家にいるのがとても辛いという言葉は、それまで一度も口にした事がなく、初めて栞菜から聞いて、両親はハッとした顔になった。
その後、沈黙が続いてから条件付きではあるが了承をもらった。
条件とは私立なら奨学金を利用するという事。
勿論、東京で一人暮らしをする事に対する金銭的負担を考慮してだろうが、それだけではなくて、これが両親の精一杯の抵抗であるというのが、二人の表情の裏から透けて見えた。
それで構わないと言い放ち、栞菜はリビングから出て自分の部屋の前で立ち止まる。隣にあるのは兄の部屋。チェストに置かれた夕食は空になっていた。
兄の存在を感じながら自分の部屋で勉強する事が苦痛に感じていた栞菜だったが、東京の大学へと志望校を変更した事でやる気が出て来た。塾には通っていなかったが、夏期講習・冬季講習だけ両親にお金を出してもらい、塾に通った。
平日の放課後は学校の図書室で完全下校時刻まで残って受験勉強をした。
モチベーションだけでは続かない。勉強を習慣付けする必要がある。
ポモドーロ・テクニック等、自分の知っている勉強法だけではなく、クラスの友人に参考書を教えてもらったりして、集中して勉強をする習慣を作った。
直接言えないので心の中で兄に感謝しつつ勉強を続けた結果、栞菜は見事、国立の大学に合格する事が出来た。
自分の受験番号が張り出されて、合格が分かった瞬間、体中の力が抜けその場にへたり込んだ。へたり込んだ彼女を一緒に見にきてくれた友達(彼女も東京の大学だけど、志望校は違う)が支えてくれて、自分の事のように泣いて喜んでくれた。
合格の喜びと同時にああ、これであの家から解放される。そう安堵した。
自宅で待機していた両親に電話で合格を伝えると、電話口で両親は声を出して喜んでいた。二人の大きな声を聞いたのは本当に久しぶりだった。
合格発表の夜、地元まで戻って来た栞菜は駅前で合流した両親とレストランで夕食を食べた。合格した事を喜び、笑い合って大好きなステーキがとても美味しかった。夕食を終えて家に帰った栞菜は、洗面所で手洗いを済ませて上機嫌で階段を上がり、部屋へと向かう。
この時ばかりは隣の兄の部屋は視界に入らなかった。
荷物を置いて、部屋を出てお風呂へ入った。
受験勉強の時は、時間の節約からシャワーばかり浴びていたのでゆっくり湯船に浸かれた。お風呂から出てから、部屋着に着替えて再び自分の部屋に帰る。
根付いた習慣というのは、残っていて、ベッドではなくイスに体が向かった。
受験が終わったら読もうと思って積んでいた文庫本に手を伸ばす。これからは読書以外にも我慢していた事を全部やろう。そう考えていた時、デスクに置いていたiPhoneがメールを受信した。相手は兄からだった。
兄からメールなんて、ここ最近は全く届いた覚えがなかった。それこそ、兄が高校生の時まで遡る。
兄の名前がiPhoneに表示された時、いくら大学に合格した事で気分が高揚していても嫌でも下がってしまう。
無視しても構わないけど、見てしまった以上、ずっと頭に残った。
「はぁ」
ため息を吐いてから、栞菜は兄からのメールを開いた。
『合格、おめでとう』
兄のメールはそのたった一言が書かれていた。大学の合否も志望校すら教えていないのに、家の空気で察したのかそれとも母から聞いたのか。まぁ、どちらでも良かった。
『ありがとう』
短くそう書いて返信した。このやり取りで終わるだろうと思っていたが、また兄からメールが届いた。
『母さんから東京で一人暮らしするって聞いた』
『うん。今度の週末、お父さんと物件を見に行く』
『そうか。同じ大学生達が一斉に家を見に来るからな。行くなら早い方がいい』
文面だけを見ると、そこにはまるで栞菜の知っている兄がそのままいるような気がした。隣の部屋ではなく、今も東京で一人暮らしを続けているそんな兄の姿がーー。
『どうしてお兄ちゃんは、大学を辞めて戻って来たの?』
つい、栞菜がそうメールを送ると、それまでテンポよく返って来た兄からの返信がピタリと止まった。返信が気になって文庫本を開けなかった。
数分してやっと兄から返信が届いた。
『二人から何も聞いていないんだな? 少し長くなるけどいいか?』
『平気。今は、時間あるから』
家の中でタブー視されていた秘密が遂に判明する。好奇心と覚悟が混ざった独特な感情が栞菜の胸の中に充満していく。再び、相手の返信を待っていた。
すると、栞菜の部屋のドアがコンコンっとノックされた。
「っ!?」
反射的に栞菜の両肩が跳ねる。メールじゃなくて直接話しに来たのか。自分が送ったメールが知らない内にそこまで膨らんでしまった事に今更気付く。
イスから立ち上がり、ドアノブに手を掛けてそっと開いた。開いたドアの向こうには兄の姿があった。
「久しぶりだな、栞菜」
「うん、久しぶり」
同じ家に住んでいるのに第一声が久しぶりというのは変だった。照れくさそうに頬をかきながら、そう話す兄は栞菜のよく知っている顔をしていた。
兄は高校時代から着ていたスウェットを着ている。前に見た時は知らない服だったので、高校時代に戻ったような気がして、自分との歳の差を感じなくなった。髪色のも黒に戻って、綺麗に整えられている。
栞菜の視線の先に気付いたのか兄は「ああ、」と言って前髪を触った。
「髪色、黒に戻したんだよ。茶色から黒に戻すと何かホッとした」
「そうなんだ」
「ところで、入ってもいいか?」
「う、うん。どうぞ」
栞菜は兄を自分の部屋に招いた。
「ありがとう」
兄は礼を言って部屋に入り、ローテーブルの前に座った。栞菜はデスク前のイスに座る。最後に兄が自分の部屋に入ったのがもう三年以上前になる。
「まずは話を始める前に言わせてくれ。大学合格おめでとう」
「ありがとう」
「凄いな、国立なんて。栞菜は勉強頑張ったんだな」
純粋な目を向けられた兄に褒められると少々複雑な気分になる。
自分がどうしてこんなに勉強を頑張れたのか。
その最大の動力源は家から離れたい為。早い話が逃避なのだ。このまま重たい空気の家から地元の大学に通う。大学から近い以上、両親は一人暮らしなんて認めてくれない。
これを逃したら今度は就職までチャンスはない。最低でも四年はかかる。考えるだけで背筋がゾクッとした。その気持ちが栞菜にペンを握らせた。
「さて、」礼を言い終えた兄が本題を話し始める。
「何故、俺が東京から帰ってきたかと言うと、」
「うん」
栞菜が相槌を打つと、兄は視線を下げて静かに語り始めた。
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