つめ研ぎ師は嘘つきの手をとる

運転手

1 赤いつめの男

第1話 つめ研ぎ屋「ケセラケア」


 知りたければ、まず手を見よ。


 この国では、当たり前の常識である。

 手とは、その人の人生が現れる。本人が語って聞かせる以上に、包み隠すことなくその人物を物語るのである。だから、その人を知りたければまず手を見なさい。

 そう言われて育った人々は手を大切にし、老若男女、富める者も貧しい者も手入れを欠かすことはなかった。特にその人の魔力の色を宿す「つめ」は第二の顔とも言われ、その色や艶、形によって人からの印象も大きく変わることがあった。


 華やかな大通りから少し外れた静かな一角。つめ研ぎ屋「ケセラケア」の店を経営するヘンナは、窓から外を眺めていた。風の強いひどい豪雨だった。広げた帳簿には、今日のちょうど今の時間に予約と書かれていた。しかし、時間が過ぎても来る気配は当然ない。ガタガタと窓が揺れて、大きな雨粒がばちばちと強い音で叩いている。夜更けのように薄暗い通りに、いつもは多く行き交っている人の影はなかった。すっかりほかの店は閉めているようだ。

 つんとヘンナのくるぶしあたりをつついてくる温かい感触が、わふんと鳴いた。使い魔のロウソンがヘンナを見上げている。ふわふわの顔の毛から唯一ちょこんと覗いているつやつやの鼻を何度も靴下に擦り付けてくる。ヘンナはしゃがみこんで、噴水みたいにぴょこぴょこ飛び出している頭を撫でてやった。すると、短い四つ足をぱたぱたと動かして喜んだ。


「もう店終いしようか。こんな雨じゃ、お客様も来れないものね」


 返事するように、ロウソンはぱたたと尻尾を振る。ヘンナはかわいい相棒の毛に隠れてあご下をぐりぐりと撫でてやってから立ち上がった。

 「ケセラケア」は、ヘンナの祖母の代から続く小さなつめ研ぎ屋だった。数年前からは一人で切り盛りしている。古くからの馴染みの客はいるが、少しずつでもヘンナの腕を認めてくれる客を増やせるようにと日々努めていた。といっても、客が来なければ始まらない。

 客が来ても寒くないようにと稼働させていた魔石式暖房ストーブを止めてしまおうと、ヘンナが手を伸ばしたときだった。

 ドンッと店の入口が大きな音を立てて揺れた。

 ぱっと振り返ったヘンナは、そっと耳を澄ませる。もしかして強風で何かが扉にぶつかってしまっただけかもしれない。しかし、どんどんと続けて二度音が鳴る。まるで誰かが扉を叩いているようだった。

 お客様かもしれないと思いつつも、不安になったヘンナは「ロウソン」と相棒の名前を呼んだ。ぽてぽてと勇ましい足取りで、ロウソンは扉とヘンナの間で仁王立ちをする。それに少しだけほっとしながら、ヘンナはためらいがちに外へ向けて声を張り上げた。


「鍵は開いていますよ。どうぞ、お入りください……っ」


 ざあざあと雨の音が響く。そんな中、店の扉のノブがゆっくりと動いた。そこには、フード付きローブの全身ずぶ濡れの人物が立っていた。顔は見えないが、体格から見て男だろう。何かを言っているようだったが、雨の音が大きすぎてうまく聞き取れなかった。


「あの、どうぞ中に入って、扉を閉めてくださいっ」


 距離を保ったままヘンナがそう告げると、男は申し訳程度にローブの雨を払ってから店内に入り、後ろ手で扉を閉めた。ひたひたとすぐに水溜まりを床の上につくってしまったことを申し訳なさそうにしながら、男は被っていたフードを外した。


「申し訳ない。どうしても外せない用事で外出をしていたところ、まさかこんなひどい大雨になるとも思わず。どこかで雨宿りでもと思い、薄暗闇の中明かりを目指して何の店かもわからずに戸を叩いてしまったんだが……その、雨がましになるまでここにいさせてもらえないだろうか?」

「ええと、そうでしたか。それは、大変でしたね」


 突然現れた人物は、髪を短く刈り上げた精悍な顔の男だった。意思の強そうな太い眉とまじまじと見ると随分と大きい体躯に威圧されそうになるが、ぶるっと身震いして震えながらうつむく姿にヘンナは一歩近づいた。しかし、こんな雨の日に出歩いてずぶ濡れの男が怪しくないことがあるだろうか、しかもこんな女一人の小さな店に。その気持ちがもう一歩を進めなくさせる。相棒のロウソンもまだ警戒しているようで、間に立って毛の中に埋もれて隠れている目で男を観察している。

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