第54話 星はいつも空にいる(リュシー)

 その言葉を聞いて、リュシーは一瞬聞き間違いを疑った。しかし、目の前の大事な幼馴染みの穏やかで柔らかで純粋な微笑みを見て、やっぱりそうなのかもと思いつつ確認する。


「文通って言った?」

「うん。文通だよ」


 やっぱり、聞き間違いじゃなかった。頬を淡く染めて恥ずかしそうに笑うヘンナを見て、ひとまずリュシーも微笑み返した。大抵のことは彼女が美しく微笑めば何とかなるのだが、この問題はそう簡単に解決とはいかなさそうだった。

 ふうっとため息をつきながら、流れてきた髪の毛をリュシーが指先ですくって耳にかけると隣の席からの視線が強くなった。ここのカフェは飾られた観葉植物でそれぞれの席が区切られていて、人の目はほとんど気にならない。よほど身を乗り出して覗いてこようとする輩がいなければ。

 どうしようかなと考え込んでいると、ヘンナが心配そうにひっそりと声をかけてくる。


「リュシー、お店変えようか?」

「え? ああ、大丈夫だよ。ああいうのはいつものことでしょ。違うこと考えてたの」


 こちらを覗き込んでこようとする男に本当に興味の欠片も湧いていなかったが、ヘンナが気にするのならと、リュシーは馴染みのカフェの店員に向かって笑って手を振ってみせた。それで全てを把握してくれた店員が、横を通りすぎて後ろの客に声をかけてくれる。これで大丈夫だろう。

 いつものことのはずなのに、いつも心配するヘンナに対して、さてと話題を元に戻させる。


「それで文通だっけ? ヘンナの提案なの?」

「えっと、ううん。相手から、なかなか会える時間がないから文通しませんかって。マクリンもやってたでしょ?」

「マクリンって、たしかあの農園から遊びに来てた女の子のことだよね」


 やっと子どもから片足踏み出した成長過程の女の子がいたなとリュシーも思い出す。初々しい少女が遠くの地にいる男の子と文通というのは微笑ましいけれど、成人した男女が同じ地域に住んでるというのに文通から始めるというのは、健全すぎて逆に怪しいように感じた。

 ヘンナは、ちょっとそういう話題に疎い。疎いというか、自分の関係する話題と思っていなかった節がある。そういう話で盛り上がっているのを、うんうんとうなずいてばかりだった。

 それは、本人と関係のないところでいろいろあったせいなのだというはリュシーも承知している。特に母親が見知らぬ男と失踪してからは酷かった。ヘンナはあのときを境に、つめ研ぎ師でないと生きていけないという悲壮さを持つようになった。

 そんなヘンナが、わざわざ好きな人とお付き合いすることになったなんてこっそり明かしてくれるようになるなんてうれしい。うれしいけれど、相手の男がすごく怪しいとリュシーは眉間を指の背で撫でた。付き合ったばかりなんだから、ない時間を無理やりつくってでも会おうとでも言えばいいのに。相手の男も相当な奥手なのかなと考えたリュシーは質問する。


「相手の人とはどこで会ったの? デートはもうした?」

「最初はお客さんとして来店したのがきっかけで……デートは、一般的なものはしてないかな。朝に散歩したり、夜に家まで送ってくれたりはあったけど」

「それは、デートの頭と尻尾だけね」


 つめ研ぎ師の仕事に対して人一倍熱意を注いでいるヘンナが、仕事中に自分から声をかけるはずがない。つまり、相手からアプローチしてきたということになる。それで会わずに文通というのはますます怪しい。グローヴではないが、リュシーも相手がどんな奴なのだろうかと心配になってきた。四者面談したほうがいいかもと、自分の休みの日を思い浮かべる。

 様子のおかしいリュシーに、ヘンナが不安そうに自分の手元のカップを両手で包み込む。


「リュシー、私何か変だったかな? 付き合ったらしなきゃいけないこととかあるの?」

「――しなきゃいけないことなんてないよ。付き合うっていうのは、何でもお互いの好きなように自由にやっていいの。大事なのは、二人でどんなことをするのが好きなのか探すこと」

「……何でも自由って、ちょっと難しいね」


 その人のことを思い出したのか、ヘンナがきゅっと口の端を持ち上げて笑った。

 リュシーは、目の前の幼馴染みが好きだ。ずっと仲が良かったというわけではない。ただ、成長するにしたがってヘンナは親の関係から、リュシーは持って生まれた美貌から遠巻きにされて、何となく一緒にいることが増えた。一緒にいる時間が増えると、ヘンナのことが好きになった。そして、好きが特別好きになった。


 児童学校時代、リュシーの私物はよくなくなっていた。リュシーを好きな人間が盗んだのか、リュシーを嫌いな人間が隠したのか。よくあることなので執着はしない。その当時は空間魔法も今のように使いこなせなかったので、常に手で持ち歩くか、捨てるつもりで諦めるかのどちらかだった。足りないものは、周囲に一言言えば貸してもらえる。

 ヘンナが、預かっていようかとリュシーに提案してきた。ちょっとお手洗いに行く間、お弁当のサンドイッチを持っておくよと言う。お昼を買い直すのも手間だったので、リュシーはうなずいた。

 用事を済ませてさっと待ち合わせ場所に戻ったところ、ヘンナは男に迫られているのを目撃した。リュシーのサンドイッチがほしいと交渉のような、脅しのようなものを口にしている。サンドイッチは母親がつくったものだし、店に行けばいくらでも売っている。馬鹿げているなと思いながら、リュシーは物陰から様子を見ていた。ヘンナは何と答えるのか、ちょっと興味があった。

 どれほど自分がリュシーを好きかなんて聞くのも飽きたことを語る男が、だから寄越せと腕を伸ばす。それを避けるように、ヘンナは身をよじった。


「あなたは、リュシーの血肉になれないでしょう?」

「……はぁ?」

「このサンドイッチは、リュシーにおいしく食べられて、消化されて、血肉となって生きていくんです。それを、あなたが買ったらどうなるんですか? 笑顔になれないし、お腹は空くし、サンドイッチ分のリュシーが減るんです。好きと言うのなら、むしろこのサンドイッチをリュシーに食べてもらったほうがうれしくなるのものじゃないですか?」

「はぁ? ……じゃあ、金をやるから新しいもんでも買えばいいだろうが」

「駄目です。それでもリュシーのサンドイッチ分が減ります。例えばフライドポテトを代わりに買ったとしてもそれは新たなフライドポテト分であって、サンドイッチ分にはなりません」

「わけわかんねぇ……」


 聞いていたリュシーも意味がわからなかった。でも、何だかおもしろくて笑いが止まらなくなった。リュシーの笑い声を聞いて、気まずくなった男は逃げていったようだったが、そんなことはどうでもよかった。

 笑いながら戻ってきたリュシーに、ヘンナは首をかしげながらサンドイッチを返した。


「はい、リュシーのサンドイッチだよ」

「うん……。ふふ、私のサンドイッチだ」


 リュシーは美しかった。美しすぎて、まるで物みたいに周りが扱ってくる。欲しい欲しいと無理やり腕を引っ張ってこようとする。両親は当たり前のように愛情を込めて育ててくれたけれど、一歩家の外に出ればリュシーはお人形になる。

 久々に、自分が自分のものだと思えて気分がよかった。にこにこ笑うリュシーを見て、ヘンナもつられて笑う。


「今日のサンドイッチの中身、好きなものなの?」

「うん、大好きだよ」


 だから、リュシーはヘンナが大好きだった。いつまでもいつまでも好きでいたいし、好きでいてほしい。だってそれが幸せだから。リュシーは自分の幸せを妥協するつもりはなかった。


「ねぇ、ヘンナ。良いお店があるの、素敵な服がいっぱい。前もって、デートのための服の下見に行かない?」

「え、ええ、気が早くないかな?」

「早くないよ。準備は早いほうがいいし、準備が一番楽しいんだよ」


 デート用の服と聞いて、ヘンナは赤くなった顔を両手で押さえはじめる。それを瞳の中に入れながら、まぁいいかとリュシーは今を楽しむことにした。

 リュシーは今は一緒に笑うだけ。もしも泣くことがあったのなら、一晩中でも一緒に泣くだけ。怒ったときは、一緒に怒って悪口を言おう。リュシーは、ヘンナと一緒にいたいだけだった。

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