第53話 わたくしの弟子(リトリア)

 その知らせを聞いたとき、あっけないわねとリトリアは思った。とあるつめ研ぎ師の訃報。この国において、つめ研ぎ師とは貴族に専有される職業だった。庶民は町医者や薬師に診てもらい、自らで手入れをするしかない。そんな特権的な技術を庶民にも広めた人物が彼女である。

 その存在があったからこそ、田舎娘のリトリアもつめ研ぎ師としてのし上がることができた。その点では感謝と尊敬はしていたが、それはそれ。美的感覚がまるきり合わなかった。多少の交流はあったが、彼女の娘が苦手すぎて最近はほとんど付き合いが途絶えていた。

 しかし、たまには顔を覗いていくぐらいはしてもよかったように思う。


「たしか、町で小さな店を開いていましたわね。……何でわざわざあんなところだったのかしら」


 庶民にもつめ研ぎをという気持ちは、リトリアにもわかる。一人でも多くのつめを美しくしたい。世界は美しくあるべきだし、美しいものに囲まれることこそ喜びであり、美しさを広めることこそ自分の使命であるとリトリアは確信していた。

 だからといって、庶民向けにつめ研ぎの地位を下げる必要はないと思っている。むしろ庶民の意識の底上げを図るべきであり、つめ研ぎを庶民化させるべきではないという考えだった。貴族や大商人ほどお金をかけられずとも、そこに大きな価値があると思ってもらいたい。そこが彼女と相容れないところだった。庶民派の彼女は、その偉業にもかかわらずひっそりと亡くなった。最近の若いつめ研ぎ師では、彼女のことを知らない者も多いだろう。


「そういえば、贔屓のジュエリーショップに新作が出ていると聞きましたわ」

「はい。商人を呼び寄せましょうか」

「……いいえ。すぐに見たい気分ですの、店までわたくしが赴きましょう。ついでに知人の顔も見に行きますわ」

「かしこまりました」


 ハンドマンに車を準備させるように言いつけて、リトリアは黒いドレスに着替えた。偉人の最後の顔ぐらい、見送ってやらなければいけない。

 魔導車で店までと思ったが、通りが狭すぎて入っていけなかった。ああ、そうだったわと過去に訪れたときのことを思い出してリトリアは額を押さえた。仕方なく車を降りて、徒歩で向かう。こんなことはこれきりなのだから、最後ぐらい我慢しよう。

 ハンドマンにエスコートされながらヒールを鳴らして歩くリトリアはとても目立った。道行く人が振り返り、凝視し、ひそひそと話す。どこに行っても同じことだった。

 やっと着いた店には、何人かの弔問客がいるようだった。全員近所の住民らしく、リトリアのようなつめ研ぎ師はほかにいない。さびしい光景だとリトリアは思う。

 狭い店の道具や器具、家具が全て奥へと押しやられて、代わりに中央にどんと棺が置かれている。生前の彼女のつめと同じ色の赤い手袋を着け、赤い花に囲まれて、彼女は眠っていた。


「まぁ、リトリアさんっ!」


 声を上げたのは、棺の横で二人の男に支えられながら震えていた彼女の娘だった。肩を抱いているほうか、手を握っているほう、どちらが夫なのかわからない。相変わらず理解できない女性だと思いながら、そんなことはおくびにも出さずにリトリアは微笑んだ。後から、どっちも夫ではなかったと聞いたときは流石に顔を歪めたが。

 上っ面の愛想笑いに、彼女の娘が儚く微笑む。


「リトリアさんのような立派なつめ研ぎ師に来ていただけるなんて。母も喜びますわ」

「ええ。つめ研ぎ師として、来るべきだと思いましたの。顔を見せてもらってもいいかしら」

「もちろんです。どうぞ」


 やりたいようにやる人だから、最期は全てをやりきったような穏やかな顔をしていると思ったのに。思いのほか不満そうに口を引き結んでその人は眠っていた。やりたいことがまだ残っていたのか。ここに魂はないのだから、そんな推測は全てリトリアの想像に過ぎなかった。

 女神がこの国を救ったときと同じ、小指同士を合わせるようにして手を上に向けて、両手でおわんをつくるような祈りのポーズを取る。

 美意識は合わなかったが、彼女の行ったことが偉業であることは変わらない。ならば、女神の御手にすくいあげられて楽園へとどうか導かれますようにとリトリアは願った。

 目を開けると、一番に瞳を潤ませた顔が飛び込んできた。


「本当に、リトリアさんに来ていただいてよかったです。お母さんがいなくなって不安で……これからもどうぞよろしくお願いします」

「あら。あなたには、わたくしの力なんて必要ないんじゃなくて?」

「そんな。私なんて、リトリアさんに比べたらまだまだ頼りなくって……」


 それはそうでしょうねとはリトリアも言わない。ただ微笑んで、くるりと方向転換して出口へ向かおうとする途中で、こちらを見ている女の子を見つけた。十を越えたぐらいに見える。たしか、彼女には孫がいると聞いていた。


「あなた、あの人のお孫さんですわね。わたくし、あなたのおばあさまと同業で、知り合いのリトリアですわ」

「……はい。孫のヘンナです。今日は祖母のために来ていただいて、ありがとうございます」


 リトリアがつめを見せると、緑の小さな粒のようなつめを見せてヘンナも挨拶をした。思ったよりもはっきりとした声で名乗り、落ち着いて丁寧に挨拶される。この子がいるのならあの頼りない娘だけ残されたこの店も何とかなるかもしれないとリトリアは思った。

 それじゃあと店を後にする。思ったよりも疲れてしまった。このままジュエリーショップに行くのはやめて、家に帰ってしまおうかとリトリアは考える。

 店の外で待たせていたハンドマンとともに、二度と来ないつもりの通りを戻る。その背中を軽い足音が追いかけてきた。


「あの、待ってください、リトリアさん!」


 あの人の娘の声だったら聞こえないフリをしたが、流石にその幼い声を無視することはできなかった。ハンドマンが女の子からリトリアをガードしようと伸ばした腕を、手を上げてやめさせた。

 振り返ると、必死の顔でヘンナが駆け寄ってくる。何を言うつもりかと待っていると、がくんと膝を折って、両手も額も地面につけて頭を下げた。


「お願いします、私をっ、弟子にしてくださいっ!」

「ちょっとあなた、膝をつくのはやめなさい。かわいい服が汚れましてよ」

「何でもやります! 私、どうしてもあなたの弟子になりたいんです!」


 何でもという言葉ほど信用ならないものはないとリトリアは思っている。できもしないことを述べるより何ができるかを言えば良いと主張して、年上の友人に窘められたことがある。誰もがあなたのように、自信を持ってできることを持っているわけではないと。そんな状態で何でもなんて言葉を軽く使うのは無責任だと考えるリトリアだったが、まさか幼い女の子に言うわけにもいかない。

 ただ、静かにもう一度立つようにヘンナに言う。


「手を粗末に扱う子がつめ研ぎ師にふさわしいとは思えませんわ。弟子になりたいと言うのなら、まずは立ちなさい」

「……はい。ごめんなさい」


 もう駄目だと思ったのか、暗い声で謝りながらヘンナが立ち上がる。うつむき加減で、太陽の下で顔を見ると随分青白く見える。

 リトリアは、ふうっとため息をついて質問した。


「あなたのお母さんもつめ研ぎ師でしょう。わたくしに弟子入りしなくてもよろしいのではなくて?」

「母は……――いえ、祖母からあなたの話を聞いたことがあるんです。向かう方向は違えど志を同じくしたつめ研ぎ師だと言っていました。私、どうしてもつめ研ぎ師になりたくて、そのためにどうしてもあなたの弟子になりたいんです。どうか、お願いします……!」


 必死になって頭を下げる。何か事情があるというのは察せられるし、かわいそうにも思うが、弟子にする理由にはならない。

 丁寧に断ろうと思ったが、ふとあの人の死に顔をリトリアは思い出した。何かやり残しがあるのだとすれば、それはこの子のことかもしれない。


「……よろしいですわ。ただし一度でもあなたが嫌だと弱音を吐いたのなら、すぐに師弟関係を解消します。それで、いいですわね」

「は、はいっ! ありがとうございます、リトリアさんっ!」

「それから、わたくしのことは師匠とお呼びなさい」

「はい、師匠!」


 気まぐれで始まったヘンナとリトリアの師弟関係。弟子なんて一度も取らずに自分の道だけ進んでいたリトリアは、どうせすぐにやめたいと言うだろうと考えていた。

 それが、1年、2年、5年、10年と経ってしまった。リトリアはすっかり師匠になり、ふとしたときに自分の弟子のことを友人に話すようになった。すっかり、リトリアの一部となってしまった。


 だから、自分の紹介した仕事で弟子が拐われたとわかったときは気が狂うかと思った。貴族や騎士相手に食ってかかろうとするリトリアを、友人である魔法学校校長のデゼールが止めてくれなければ大事件になっていたかもしれない。デゼールを介して、絶対に一番に知らせると約束させた。

 夜が明ける前に無事に保護されたという連絡が来た。でも、実際に顔を見るまではリトリアは眠れなかった。ヘンナの師匠として、こんな体たらくではいけないと睡眠薬を飲んで無理矢理寝た。

 弟子のヘンナに、師匠のリトリアにも知らせていない秘密があるのはわかっている。ずっと何かを隠して、いつもどこか後ろめたそうだった。ならば正直に話せばいいと、何も知らない頃ならはっきりとリトリアだって言えたのに。もうヘンナという子を知ってしまったので、言うことはできない。

 弟子のためなら、多少のことには目をつぶろう。たとえ、彼女が拐われたのはリトリアと間違えたせいということにしてほしいと言われようが、それであの子が安心できるのなら。リトリアとは敵対派閥スローに属するつめ研ぎ師の嫌味も有り得ない噂だって全て蹴散らす。

 それなのに、こんなに師匠が弟子を想っているというのに、弟子失格なんて本人が言うものだから、リトリアは不覚にも弟子の前で涙を一粒落としてしまった。


「一生わたくしの弟子でいなさい……!」


 情けない顔を隠すために、リトリアはヘンナの頭を抱き締める。

 つめ研ぎとは、大切な人のためだと弟子を取って初めてわかった。ヘンナがふさわしくないと言うのなら、リトリアが整えればいいだけなのだ。

 美しいつめばかりが好きなのではない。大切な人が美しいつめで笑ってくれるのを、リトリアは好きになったのだから。

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