6 木陰をつくる緑のつめ
第55話 明るい警備隊員
つめ研ぎ師であるヘンナの一日は、まず清掃から始まる。
つめという人の繊細な部分を扱う上で、店内の清潔を保つのは基本中の基本だった。毎日やろうともどうしてか床の上に現れる塵や埃を掃き清めて、施術の際に使う机や椅子も拭く。清潔なタオルがきちんと準備されているか、使う道具も揃っているか、おもてなしのためのポットやカップもきちんと点検する。
帳簿を確認すると、予約は午前に一件、午後に二件。誰も施術していないときは、カーテンと窓を開け放しているので、その様子を見て飛び込みでやってくる近所の常連客もいる。
「今日も頑張ろうね、ロウソン」
わふんと鳴く使い魔の頭を撫でていると、店側の扉とは反対側、住居側の扉のほうから魔石式三輪車が走る駆動音がぽっぽっと響いた。思わず手を止めて耳を澄ますヘンナに、ロウソンがちょっと不満そうに尻尾を揺らす。
また、駆動音が遠のいていくのを聞いてから、誰が見とがめるわけでもないのにこほんとヘンナは空咳をして立ち上がった。自分の頬の内側を噛んでいないと、顔がにやけてしまいそうだった。
「郵便が来てるかもしれないから。見に行かないと、ね?」
言い訳のようにロウソンに語りかけてから、ヘンナは走らないように気をつけながら住居側の玄関前にあるポストを見に行った。
先日、ヘンナはクローといわゆるお付き合いをすることになった。お互いの仕事もあるため、それほど頻繁に顔は合わせられないけれども、せめて文通はしようということになったのだ。
そうはいっても、国の諜報部隊に所属しているクローは基本騎士団の寮におり、しかも手紙は検閲される。少し後ろ暗いところのあるヘンナが目をつけられては困るということで、手紙も少し特殊な形でやり取りしている。ヘンナからクローへと手紙を送る際は、事前に指定された場所にそっと隠しておく。この指定はクローからの手紙で毎回指示が変わる。そして、クローからヘンナの手紙は、魚の絵が角に描かれた緑の封筒がいつもどこからか郵便配達される。毎回差出人名が変わるので、それもちょっと面白いなとヘンナは感じていた。
玄関扉を開けて、ちょっと跳ねるような足どりでポストを開ける。そこには、緑の封筒と白い封筒が2通重なっていた。
まず緑の封筒の角を確認する。そこには、滲んだインクの線で描かれたいつもの魚の絵があった。仕事にならなくなるから、これは後で読もうとヘンナは決める。
そして、もう一通の封筒の差出人を見る。そこに書かれている名前を見て、すうっと顔から笑みが消えたことをヘンナ自身も自覚していた。そこには、旅商人として各地を巡っている父親の名前があった。
わふんと動かない主人にロウソンが呼びかけた。
「あ……仕事に戻らないと」
自分の使い魔の声に反応して、ヘンナはやっと顔を上げて、足を店のほうへと戻した。
父親とは、旅商人ということもあって家族らしい交流は少ない。でも、いつも楽しい土産を持って帰ってくれる明るく優しい父親が帰ってくるのを、幼い頃は楽しみにしていた。今だって、つめ研ぎ師のヘンナのために格安で必要なものを手配してくれている。……本当に自分はあの人の娘なのだろうかという不安が、ヘンナの胸によぎってしまうだけで。
二つの封筒は玄関を入ってすぐ横にある棚にしまっておいて、ヘンナは仕事場へと戻った。ぱしんと軽く自分の頬を叩いて、気持ちを切り替える。
カーテンと窓を開けると、さわやかな風が通り抜けた。行き交う通行人と目が合って、微笑みながら会釈する。今日は天気もよく、風の気持ちのいい日だった。
午前の予約のお客様が来るまでには時間がある。道具の手入れでもしておこうかと考えているとヘンナが考えていると、とんとんと店側の扉がノックされた。
誰だろうと思いながら、こちらのほうが早いと開けた窓からヘンナは身を乗り出した。
「おはようございます。……何かご用でしょうか?」
お客様でしょうかという言葉は寸前で飲み込んだ。なぜなら、扉の前に立っているのは市民を守るために巡回している警備隊の制服を着ていた。警備隊に所属している常連客もいるが、詰襟の制服姿で来店してきたことは一度もない。
その警備隊の男は、窓から顔を出したヘンナに気づくとぱっと笑顔になった。その顔には、どこかまだ幼いところがあった。そして、軽い身のこなしと大きな一歩であっという間にヘンナの前に立つ。窓の前でぴしっと背筋を伸ばして、彼は自分の朝食のテーブルに並ぶフルーツのような深橙色のつめを見せた。
「初めまして! 本日からこの地区の警備担当になったオリバースっす!」
はきはきとした声で挨拶をするオリバースは、人懐っこい顔でぴしっと挨拶をした。真新しい綺麗な制服のボタンを全てかっちり留めて着ているところから実直さを感じられる。周囲の通行人からの視線も集まるが、そのほとんどは微笑ましいというふうにくすくす笑っている。
「ご親切にありがとうございます。私は、つめ研ぎ師のヘンナです。これからどうぞよろしくお願いしますね」
ヘンナも自分の緑のつめを見せながら愛想良く挨拶をする。和やかな空気の中、主人が拐われた一件から警戒心が強くなっているロウソンが少し低い声でわうんと一鳴きする。
その鳴き声を耳にしたのか、オリバースが窓枠に手をついてロウソンのほうを覗き込もうとする。
「ヘンナさんの使い魔っすか? かわいい子っすね」
「あ、ロウソンという、名前、で……」
不意に近づかれたその体躯は、警備隊として当然ながら鍛え上げられて厚みがあった。窓枠に置かれた手も大きく、太い節が目立つ硬そうだった。拘束されれば、抵抗できない。不意に、あの日のことを思い出して舌の動きはぎこちなくなった。ぞわりと背筋を走った冷たさを誤魔化すために、ヘンナは唾を呑み込む。
血の気の引いたその横顔に、窓から身を乗り出していたオリバースが小さく囁いた。
「――すみません。『お嬢さん』を怖がらせるつもりはなかったんです。気が利かなかったですね」
えっと聞き返す前に、オリバースは振り子のようにぐいっと窓から身を引いていた。そして、ぱっと幼い顔で人の警戒を解きほぐすように笑う。
「上司からも、ちゃんと職務上の距離感を大切にしろって注意されてるんすよ。俺って頼りなく見える上に馴れ馴れしいらしくて。なんか申し訳ないっす」
「あ、いえ……」
「あ、でも、いざというときはきちんとお守りするっすよ! 困ったことがあったら、いつでも俺にどーんとお任せっす!」
そう言いながらオリバースは何もつけていない手で、まるで手袋をはめるような仕草をしてみせた。そこでヘンナも思い至って、周りに聞こえないぐらいの声で尋ねる。
「上司は、手袋をしますか?」
ヘンナの質問に、オリバースは無言のまま笑顔で頷く。つまり、目の前の彼はグローヴの祖父たちが仕切る、裏の世界とつながっている手袋屋から派遣された、ヘンナを見守るための人員ということだ。どうやって警備隊という立場を得ているのかは、こちらには事情はわからない。
隠すものなんて一つもないという笑顔で、オリバースは距離を保ったまま警戒心剥き出しのロウソンに軽く話しかける。
「俺もロウソン君と同じ、ご主人様を守る仲間っすから仲良くしてほしいっす!」
「わふうぅ……」
「あ、駄目? 駄目っぽいすね? じゃ、今度お近づきの印に何かお土産持ってくるっすよ。ちょっとずつ友好を深めていこうっす!」
おどけて片目を閉じてウィンクするオリバースを、ロウソンはじとっとした目でじいっと見上げる。仲良くなるには、まだまだ時間が必要そうだった。
特に気を悪くした様子もなく厳しいっすねと肩をすくめたオリバースは、今思い出したというように慌てた動作で腰に巻き付けたベルト型の小型バッグに手を入れた。
「そういえば、これを上司から頼まれてたんすよ! つめ研ぎ師の方への依頼文? 通知文? なんかそんな感じのものらしいっす。一応今日中に確認しておいてくれってことでしたっ!」
「あ、ありがとうございます」
何の変哲もない封筒。国からのものであれば、普通は紋章が封に施されているはずだった。差し出された宛名も何も書かれていないまっさらなそれを、ヘンナはそっと受け取った。手袋屋のほうからこういった手紙が来るのは珍しい。大体グローヴから話を聞かされるからだ。といっても、大した情報はそもそもヘンナに教えられないが。
封筒が受け取られたことを確認したオリバースは頷いて、窓から一歩離れたかと思うと背筋を伸ばしてつめを見せるように敬礼した。
「そんじゃ、俺はここら辺でそろそろお暇するっす! 話すのは楽しいっすけど、あんま遊んでると叱られちゃうんで……。いつでも困ったことがあったら頼ってくださいね」
少しだけ真剣な目をしたかと思えば、冗談のようににっかり歯を見せて笑う。最後は友人のように手を振って、新しい警備隊員は風のように去っていった。
その後ろ姿を見送って、ヘンナは足元のロウソンと目を合わせる。
「何だか、今日は手紙の多い日だね」
忘れないうちにと、ヘンナは受け取った封筒を今朝の2通の手紙と同じ棚にしまいにいった。
つめ研ぎ師は嘘つきの手をとる 運転手 @untenshu
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