第38話 闇に渦巻く不穏

 ふわふわとした頭で話を聞くヘンナに、横から声がかけられた。


「ご歓談中に失礼いたします。マゴー様がお呼びしているので、つめ研ぎ師の方についてきていただきたいのですが」


 マゴーの名前を出されて、ふわふわ浮いていたヘンナの思考が地上に引き寄せられた。さっと声をかけてきた使用人に向きなおる。


「マゴー様がお呼びなのですか? 何か問題が起きましたか?」

「問題というよりは、事前にもう一度確認してもらいたいとのことです」


 何か致命的なことが起こったわけではないと、一旦ヘンナは安心する。


「申し訳ありません。せっかくのお話の最中でしたが、失礼いたします」


 話し途中だった学長にその場を離れることを謝罪すると、首を横に振られた。


「あなたはつめ研ぎ師なのだから、申し訳なく思う必要はない。年寄りの話は長くなっていけないね。また、機会があればお話をしよう」

「いってらっしゃい、ヘンナ。何かあれば、わたくしの名前をお出しなさいな」


 リトリアにも送り出されて、ヘンナは使用人に従ってホールを出た。

 パーティを楽しむ賓客や忙しなく立ち働く給仕たちのの喧騒から外れて、屋敷の奥は静かだった。ほとんどの使用人たちはパーティに駆り出されているのだろう。ほかに誰もいない廊下を通って、一つの扉の前に連れてこられた。


「……ああ、待っていたわ」


 そこには、明かりもつけていない薄暗い部屋で窓の外を眺めていたマゴーが立っていた。ぱちんと使用人によって灯りが点けられる。


「月を、眺めていたのですか?」


 ちらりとヘンナが確認したところ、つめに大きな問題はなさそうだった。無造作に下ろしていた髪をワックスで撫でつけてマゴーの涼やかな目元がはっきりと見える。長い足に映える細身の白いジャケットに、耳には星の光を思わせる大ぶりのイヤリング。着飾ると、ますます月のように美しい人だった。顔色も昨日ほど悪くない。

 マゴーはふうっとため息をついて、やっと窓から目を離した。


「太陽も好きだけれど、月もきれいだわ。……見上げるほどに、自分は地上のちっぽけな存在に思える」

「今日のマゴー様は、月のように物憂げですね。どうぞこちらへ座ってください。お手に触れますね」


 放っておけばいつまでも窓際に立っていそうなマゴーをソファに座らせて、その手を引き寄せた。つめに大きな欠けはない。けれど、触れている手は冷たく、わずかに震えているように感じた。

 サントマ聖水のスプレーで手を清めてから、クラッチバッグから固形のオイルを取り出し、指ですくいとって手のひらで暖めた。溶け出したオイルをマゴーの手にマッサージしながら馴染ませていく。


「冷えていますね。……月も冷たいのでしょうか?」

「太陽に近づこうとするぐらいだから冷たいんじゃないの。それとも、近づくために冷たくなったのかもねぇ」


 つめの部分には念入りにオイルを染み込ませるように手で包み込む。しかし、ぴかぴかと全体が光ってしまうので、削った部分はガーゼで慎重に拭った。


「師匠が、初めてのときのことを思い出して怒ってましたよ。……マゴー様、若作りババアなんて呼んだんですね」

「なぁんだ。覚えていたのねぇ、あの人」

「はい。ですから、私も、師匠も、マゴー様がどんな絵を描くか楽しみにしています」


 マゴーの冷えていた手に少しずつほぐれていく。明るい満月の夜のような、美しい紫のつめだった。


「そうねぇ。美しくないアタシを見せるわけにはいかないわ」


 そこで、やっと口元に微笑みが浮かぶ。誰の目も惹き付けるだろう美しさだった。椅子から立ち上がったマゴーは、くるりと手を灯りにかざす。


「うん、今日のアタシは完璧よ。……あんたの顔を見ていると、緊張感がなくなるわ」

「それは、いいことですか?」

「アタシの最大の褒め言葉よ。受け取っておきなさい」


 両腕を組んで胸をそらすマゴーの姿は、いつもの調子を取り戻しているように見えた。しかし、ふと顔をうつむかせてヘンナを手招きする。


「呼んでおいてなんだけど、アタシのお披露目が終わったらあんたはすぐに帰りなさい」

「え」

「アタシの支援者が、あんたのことを気にしてたの。あんまり悪くは言いたくないけど、最近ここの主人って怪しい連中とつるんでるみたいなのよねぇ。事情はよく知らないけど、賭け事してるとか何とか」

「賭け事、ですか」


 幼馴染みでもあり、つめを塗る裏の仕事の斡旋者でもあるグローヴが、闇賭博が最近流行っていると言っていたのをヘンナは思い出した。たしか、近づいてはいけないとも言われた。

 ごくりとヘンナが唾を飲み込んでいると、そんな深刻な顔しないでよねぇと励まされる。


「さっさと帰れば大丈夫よ。あんた地味だし、こっそり帰っちゃいなさいよ。……アタシの芸術を見て、暗い顔で帰らせないわよ」

「そう、ですね。楽しみにしています……」


 二言、三言話して、ヘンナはお披露目前のマゴーを邪魔しないように部屋を出た。よほど忙しいのか、ヘンナをここまで案内した使用人の姿は見えない。戻ろうかとも思ったが、マゴーの邪魔もしたくはない。

 危ないと言われはしたものの、ここで一人案内を待つよりはと、ヘンナは自分で急いで戻ることにした。

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