第37話 触れられない子どもたち
「おや。こんばんは、リトリアさん。今宵は素敵な夜になりそうですかな?」
「……あら。デゼール様と顔を合わせられただけでも、今夜の星は耀きますわ」
とある老齢の紳士に声をかけられて、初めてリトリアは足を止めた。あらあらと少女のように唇をほころばせながら、ヘンナに横に立つように促した。
「こちら、わたくしの弟子ですわ。以後お見知りおきを」
「お初に、お目にかかります。リトリア師匠の弟子ヘンナと申します」
言葉を噛まないように気をつけながら、ヘンナは自分の腕を持ち上げて薄緑色のつめで挨拶をした。うんうんと親しげに頷くやさしい顔の紳士は、重ねた年齢を感じさせるしわの多い手を持ち上げた。そのつめは、自由に空を舞う鳥の翼のような暗茶色だった。
「はじめまして、ヘンナさん。私はデゼール。王立魔法学校で学長をしておるんだ」
王立魔法学校と言えば、魔法の才を持つものの中でも一握りの者しか入れない国内屈指のエリート輩出校だ。美しい手を至上とする国では、手を動かすことなく魔法を自在に操る者こそ尊敬される。幼馴染みのリュシーにも入学の誘いがあったが、生徒のほとんど貴族ばかりの息苦しそうなところなんて嫌と言っていたのをヘンナは聞いていた。
そこの学長ということは、ヘンナにとってはとんでもない雲の上の人だった。しかし、地位のある人に感じるような威圧感が感じられない。ヘンナと目を合わせるように少しかがんだ学長が穏やかな顔で笑う。
「あのリトリアさんの弟子を務められる方がいるなんて、この目で見るまでは信じられんかったよ」
「あら。その言い方では、わたくしがなんだかとても恐ろしい師匠のように聞こえますわ」
「私はあなたの美しさも、気高さも、そして苛烈さもよくよく知っているからね。……ああ、君。こちらの二人に飲み物を」
学長は給仕を呼びつけて、リトリアとヘンナに飲み物を渡すように指示する。差し出されたグラスには、しゅわしゅわと細かい泡が立つ琥珀色の果実酒が入っていた。ヘンナが一口すると、ほんのりと爽やかな匂いと甘みが渇いた喉を潤した。
ほうっと息をついたヘンナに、学長が声をかける。
「私は、リトリアさんのようなつめ研ぎ師のファンなのですよ。もちろん、ヘンナさんも尊敬に値する」
「そんな。私が師匠のようになるには、まだまだ研鑽が必要です」
「そう謙遜しないでいい。あなたの手は、多くに触れ、経験を重ねてきた立派な手をしているとわかる」
言われなれない褒め言葉に、ヘンナは曖昧な反応になってしまう。つめ研ぎ師としてつめを褒められたことはあったが、手を褒められたのは、クローと合わせて2人だけだった。
学長は口髭を指先で撫でつけて、ちょっとおどけたように肩をすくめた。
「少し困らせてしまったかな。しかし、私の本心だよ。……知りたければ、まず手を見よ。誰もが知っている言葉だ。でも、学校の子どもたちを見ていると、それが疎かにされているように思えてならない」
「貴族の間では、手を傷つけない育児法がますます過熱していますものね」
周りにいる貴族たちに一応気遣ってか、リトリアは声をひそめつつもぱちぱちと不機嫌そうに扇を鳴らしている。
貴族の世界に疎いヘンナが説明してもらったことによると、手を傷つけないように赤ん坊の頃から矯正グローブをつけられるらしい。また、幼いつめが何かに触れて傷つくことがないように、ずっとハンドマンが世話するという。スプーンすら持たせてもらえない。庶民にはできない、貴族ならではの育児法だった。
「家庭教師がつけられるようになって、初めて自分の手で杖やペンを持つ。しかし、子どもというのは触れる生き物だよ。何にでも手を伸ばし、握り、知ろうとする。子への愛情が故にということもわかるが……」
学長が難しい顔をしている。
そのとき、楽団が流していた音楽の曲調が変わった。談笑していた人々は移動を始める。どうやらダンスの時間らしい。邪魔にならないようにとヘンナは壁際に寄る。
ぴったりと寄り添い合う若い婚約者たちや長年人生を共にしてきた夫婦はそっと手を取り合う。その一方で、まだ少女の域を抜け出していない若い女性の前に一人の青年に膝をついて、ドレスの裾に唇を寄せていた。頬を上気させた女性は、つめと同じ色の花がついた飾り紐をドレスから取り外し、男性はドレスの裾にまで垂れていた飾り紐のもう一方の端を手に取った。二人はソマリ花の飾り紐の両端を持って踊り始める。
ああと学長が横でため息をつく。
「まだ婚姻関係にない二人は、フラワーロープダンスを踊る。一年に一回学校主催で開かれるダンスパーティでも、生徒たちがみんな踊るのだよ……ヘンナさんも踊ったことはあるかな?」
「ええ、ちょっとした付き合い程度ですけど」
フラワーロープダンスは、基本的に女性側が自分の色にソマリ花を染めた飾り紐をドレスに結んで、それを使って踊る。決まった想い人がいる場合は、自分のソマリ花を相手の色に染めてもらうのが決まりだ。そのような人も、機会も、ヘンナにはまだなかったが付き合いで何度か踊ったことはある。
ホールの中心で初々しくフラワーロープダンスを踊る男女を、学長が目を細めながら見守っている。
「子どもたちが初々しく踊る姿を見るのは、懐かしくも微笑ましいものだ。しかし、学校のダンスパーティは年々問題が増えてきている。行事をとりやめることすら話題に上がるんだよ」
「それは、なぜですか?」
「男の子たちが力加減できなくて、女の子たちが怪我をするからだね。子どもたちは、手を使うことに慣れていないんだ。……問題になるのは、貴族出身の子たちが多い」
「意外です。貴族の方は幼い頃からダンスのレッスンもきちんと受けていらっしゃるかと」
相手が醸し出す親しげな様子に、ヘンナはつい感じたことをそのまま聞いてしまう。言ってしまってから失礼だったかと心配したが、学長は気にした様子もなく頷いた。
「確かに、貴族の子はレッスンを受ける。けれど、レッスン相手はダンスに慣れた成人女性あるいは男性だ。男の子たちは、レッスンのときと全く同じ力加減で、慣れていない成長途中のか弱い少女を相手にする。そして、女の子たちは予想もしない力強さについていけない。……相手に合わせるという感覚がわからないんだよ。その傾向が、どんどん強まってきている気がするんだ」
今現在、ホールで踊っている若い男女は楽しそうにお互いに見つめあっている。男性が飾り紐を自分のほうに引き寄せて、その力に身を任せて女性がくるくるとステップを踏みながら近づいていく。
ヘンナが学生たちと同じくらいの年の頃は、周りの女の子たちはソマリ花の飾り紐をそわそわしながら準備していたし、男の子は木にロープをくくりつけてダンスの練習をしていた。力加減を間違える子だっていたけれども、それさえも楽しんでいた覚えがある。
「力加減を間違えるというのは、私の周りでもありました。でも、そういった問題ではないということですか?」
「私の代でも、そういうことはあったね。ただ、今の多くの子どもたちは、何が間違っていたのかすらわからないんだよ。経験がなさすぎて、力加減が必要という考えがない」
そこまで聞いてヘンナの頭に浮かんだのは、近所に住んでいる幼い兄弟のことだった。よく喧嘩をしているのだけれども、よく兄のほうが泣かされていた。兄は力加減をするけれども、弟は力加減や良い悪いの判断が幼いゆえにできない。弟がレンガを投げつけて流血騒ぎの喧嘩になったときは、さすがに大騒ぎになった。その一件以来、弟はおとなしくなった。つまり、この幼い子どもの状態のまま成長してしまったということだろうか。
学長は、眉間にしわを寄せながら考え込むように顎をさする。
「手の美しさを愛でる気持ちは私にもある。けれども、それだけを大切にしようとする傾向には疑問があるのだよ。触れる手、経験する手、伝える手……手を見よとは、そういうことではないだろうか」
「わかるところもありますわ。つめ研ぎ師の仕事は、美しさを保つ以外にも、手仕事をしてもつめが傷つかないよう保護する意味も含みますの。せっかくつめ研ぎしたから手はしばらく使わないとおっしゃる方もいますけれどね」
学長の言葉にリトリアも静かに頷く。ハンドマンをつけて力仕事や雑用などは任せるが、手を使うこと自体はリトリアは反対派ではない。むしろ扇を手にするなど、自分を美しく魅せる動作には積極的だった。また、ヘンナに触れることも戸惑わない。
彼女の同意に、学長は顔をほころばせた。
「そう。だから、リトリアさんのようなつめ研ぎ師が子どもたちに必要なのではと考えているんだ。ヘンナさんにも、いつか仕事として我が校に来てもらうこともあるかもしれない」
「私が、魔法学校にですかぁっ?」
思っても見なかった提案に、ヘンナの口から甲高い声が漏れた。そんな弟子を落ち着かせるように、リトリアがぱさっと扇を広げて顔をあおいだ。
「どの方にもかかりつけのつめ研ぎ師はいらっしゃいますでしょう? わたくしたちが、例えば学校に出向いたとしてどんな役目が求められますの?」
「生徒たちへ相談窓口のようなことをしてもらえればと。そういう意味では、ヘンナさんのほうが向いているかもしれないね。リトリアさんは、あまりに人を圧倒するから」
「あらぁ。わたくしも弟子を持つようになって、多少は丸くなりましたのよ?」
盛り上がるリトリアの学長の話を、ヘンナは横で静かに頭の中で噛み砕いていた。突然の話に驚いてしまったが、まだ正式な話ではないようだ。ただ、学長は前向きにこの話を実現したいように見える。
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