第36話 貴族邸のダンスパーティ

 もちろん、ヘンナは貴族のパーティに出席できるようなドレスは持っていない。リトリアに相談すると、そんなこともあると思ってとヘンナの衣装を何から何まで準備した。

 ドレスは、リトリアが普段は着ないような、黒のレースと暗緑色のシルク生地が美しかった。かかとの低い白い靴も、コンパクトで軽くて持ちやすいクラッチバッグも、髪を留める華やかなバレッタまで準備してもらうことになった。魔力で薄緑に染めたソマリ花を飾ったドレスの裾は、触れるだけで高価なものだと判別できる。ただ、どれだけ高価なのかはヘンナにはわからなかった。向かいのリトリアは、葡萄酒のような色の花を飾ったマーメイドドレスを着こなしている。


「師匠、出世払いで、出世払いでお願いします……」

「何を言ってるんですの? それらは今回の仕事を行うのに必要な経費でしてよ。もちろん、報酬はまた別でお渡ししますわ」

「こんなにもらってしまうなんて……」


 リトリアの魔導車に乗せられて、パーティ会場である貴族の屋敷に向かっている。今までにないくらい緊張したヘンナは、無意識に自分の膝を撫でていた。いつもそばにいてくれるロウソンは、今日はリュシーの家に預かってもらっている。代わりの護身用に、いつかにグローヴからもらった麻酔薬を隠し持っている。

 日が落ちてきて紫になりはじめている窓の外を眺めていると、リトリアがやさしい手つきでヘンナの流れてきた前髪をなおした。


「あなたは受け取ることに慣れなさいな。もしも何かを返したいのなら、わたくしが喜ぶものにしてちょうだいね」

「師匠が喜ぶ、ようなつめ研ぎ師になるにはまだ時間がかかります」

「わたくしはまだまだ最前線を歩きますわ。あと何十年かはかわいい弟子でいてくれて構わなくってよ」


 冗談だったのかおほほとリトリアが笑う。ヘンナもぎこちなく笑った。

 ただの招かれた客の一人ですらこんなに緊張しているのであれば、今日の注目の的であるはずのマゴーはどれほどの痛みのような緊張に耐えているのか。そんな思いを馳せて、ふとヘンナは思い出した。


「そういえば師匠、マゴー様と初めてお会いしたのっていつなんですか?」

「いつ? ちゃんと話したのは、今回の依頼を受けてからですわ」

「え、そう、ですか? それにしては遠慮なくお話をされていたような」

「顔自体は知っていて、一応気にはかけていましたの。だから、ちょっと距離感がほかのお客様と違うかもしれませんわね」

「そうでしたか」


 マゴーのことをちゃんと覚えていたという言葉にヘンナはほっとする。後でマゴーと顔を合わせたときに教えようかと考えていると、何かを思い出したリトリアがばさっと扇を広げて口元を隠した。


「本当、忘れもしませんわ。とあるお客様のお屋敷に訪問したら、人形みたいに生気のない子がいましたの。心底つまらなそうにしていらしたから、何か美しいと思うものはないのとお尋ねしましたわ」

「マゴー様から少し聞きました。そのときのことをとても大切な思い出と……」

「――うるせぇ若づくりババア、お前じゃないことだけは確かだよと言われましたのよ。あのときのわたくしがもう少し若ければ、窓から逆さ吊りにしていたところでしたわ」

「それは、聞いてなかったです」


 憧れとなるきっかけだと聞いていたから、美しい二人による、少女小説の挿絵のような邂逅をヘンナは浮かべていた。マゴーは、緊張すると口が悪くなってしまうのかもしれない。

 リトリアはぱさぱさと扇で顔をあおいでいる。


「屋敷を飛び出したと聞いたと思ったら、その後ちらちらと物陰から見つめてくる姿が目に入るようになりましたわ。大きな体を丸めて、隠れていたつもりだったのでしょうけれど」

「えっと、声はかけなかったのですか?」

「視線を投げかけてくる方々をいちいち相手にしていたらキリがありませんもの。……途中で諦めるかとも思いましたけれど、ようやくわたくしに話しかけられるようになったみたいですわね」


 リトリアはまったくとため息をつきながらも、少し楽しそうにヘンナには見えた。


「では、師匠も今日の御披露目は楽しみですね」

「この期待以上に楽しませてくれるかは、あの子次第ですわね」


 気がつけば、窓の外の景色は高級住宅街からもう一段空気が変わっていた。先ほどまでは美しい庭や門構えが外の景色に流れていたが、今は影すら見せない分厚い壁と巡回する門番、一分の隙も許さない静謐さがあった。ここが貴族たちの居住地区だとわかる。

 魔導車が、木々に鬱蒼と囲われた薄暗い道に入る。一気に夜が来たのかと思えば、ぱっとまた明かりによって照らされる。道を抜けた先に、突然大邸宅が現れた。

 魔導車が停まると、すぐさま外から扉が開かれる。リトリアに背中を押されて、ヘンナはされるがままに車を降りた。ぐるりと左右に緩やかなスロープがあり、敷かれている橙色の絨毯に沿って歩いていく。


「ヘンナ、腰が引けていると見映えが悪くてよ。お腹に力を入れて歩きなさいな」

「は、はい、師匠」


 スロープを上った先の玄関は、透かした光の色を宿すルクスト魔石でつくられていた。穏やかな暖炉のような温かな色の入口を抜けると、天井の高い玄関ホールでにこやかな使用人に迎えられる。


「リトリア様とそのお弟子様ですね。会場へご案内いたします」


 首をわずかに動かしてリトリアはええ、と落ち着いた返事をする。その横のヘンナは、ホールの天井に吊られているシャンデリアの輝きにぐるりと目を回していた。


「こちらでございます。主人の用意した催しにはまだ時間がございますので、それまでしばしお待ちくださいませ」


 案内されたホールは、まるで卵の中のように天井が丸かった。シャンデリアがなくても明るいのは、玄関と同じくルクスト魔石が天井に使われているからだろう。

 楽団が緩やかな音楽を奏で、着飾った人々が談笑している。テーブルにはご馳走が並べられてきらきら光っている。貴族がオイル漬けなどの油を使った料理が好きなのは本当らしいと、緊張したヘンナは変なところに注目してしまう。


「あら、リトリアさん。よい夜ですね」

「今回の催しには貴女も関わっていると聞きました」

「私の手にも貴女の触れられる栄誉が与えられたいものだ」


 かつかつと肩で風を切りながら堂々と歩くリトリアに、何人かが声をかけてくる。しかし、それらは全て紫の唇の微笑一つで流されてしまう。遠巻きにひそひそと話す者もいるようだったが、それには一瞥もしない。そんな誇り高い師匠の後ろを離れないように、ヘンナはせかせかと足を動かした。

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