第35話 憧れの人
むっつりと唇を尖らせるマゴーに、幾分か気分が落ち着いてきたヘンナは声をかけた。
「それでは、続きをやっていきますね」
「…………お願い」
「はい」
さりさりとつめを研ぐ音だけが部屋に響く。窓の向こうから差し込んでくる光が足元を照らして、ロウソンが眠そうに欠伸をした。
ぽつんとマゴーがヘンナに声をかける。
「ねぇ、話しかけてもいいの?」
「はい。ただ、作業しながらなので、少し返事がゆっくりになりますが」
「じゃあ独り言だから、気が向いたときだけ返事して。……アタシ、あんたがあの人の弟子だっていうのがうらやましいわ。ずっと憧れてたんだから」
「師匠のことですか?」
「そうよ」
本人がこの場にいないからか、マゴーは素直にそう答えた。その気持ちは、ヘンナにはよくわかった。
「師匠は、美しくて、誇り高くて、格好いいですものね」
「初めて会ったのは、まだ芸術家とも自称できないぐらい若い頃だったのよねぇ。アタシ、芸術家じゃなくて愛玩する美しいお人形役として囲われてたの。あの頃、アタシの描くものは子どもの落書きぐらいにしか思われなくて、上手ね、頑張ってるねなんてあやすような言葉しかかけられなかった。絵自体に言及なんてしやしない。……アタシはアタシで、踏み台にしてやる気持ちだったけどねぇ」
マゴーの声には何の感情も籠っていない。それが、その空虚だった日々を物語るようだった。ヘンナは一瞬手を止めそうになったが、そうだったんですかと返事だけして自分の仕事を続けた。マゴーはそのまま話し続ける。
「その貴族がパーティ用につめを整えてほしいって呼んだのが、あの人。そのとき、アタシもその場に呼ばれたの。自分の美しい人形を自慢したかったんでしょうねぇ。……だけど、紹介されてもちらりと見ただけで、あの人無反応だった」
「そんな反応は、あまりされたことなかったでしょうね」
「そうねぇ。だから、うらやましがってほしかった貴族が必死にアピールしたの。それで、あの人がアタシに向かって言ったのよ。貴方自身が思う美しいものを見せてって」
「それは、恐ろしい質問ですね」
ヘンナは、もし自分がそんなことを師匠に言われたらと想像する。どうにか美しいものを見せようと悩んで、あの誇り高い美しい人が満足してくれる答えを見つけられなくて、小さくなってしまうだろう。
「アタシ、そのときはほとんど何もつくれてなかった。ただちやほやされる状況に慣れきって、川の浅瀬に足を浸して大海原を泳いでいる気になっていた。この人に美しいと思ってもらえるものが何もないって気づいて、その日のうちにその貴族の屋敷から飛び出したわ。……結果、誰にも見向きされなくなったけどねぇ」
「でも、今はここにいらっしゃいます」
「最近、やっと吹っ切れたの。技術だけじゃ足りないなら、自分の見た目も芸術に組み込もうってねぇ。思ってたより、実際に目の前で描くパフォーマンスはウケたわ。だって、アタシは美しいもの」
皮肉げに薄く微笑むマゴーを見れば、どんな人でもやはり美しいと思わずにいられないだろう。それが、どうかこの人にとっての祝福になってほしいとヘンナは願う。その助けとなるように、つめを整えていく。
「準備も大変でしょうけど、ちゃんと眠ってくださいね。私が言えることでもないですが」
「本当よぉ。あんただって、目の下に隈ができるくせに」
「え、ばれていましたか……」
ちゃんと目の隈を隠すように、化粧をしてからきたのに。つめを扱っているから顔に触れられないが、ヘンナは確かめたくなる衝動に襲われた。
それに、マゴーがふふんと笑う。
「目の下に塗りすぎ、何を隠したいのかすぐばれるわねぇ。これだけ近くにいれば、さすがにわかるわ」
「ご心配かけて申し訳ありません。手元を狂わせるようなことは絶対しませんので」
「そんなの当たり前でしょ」
そこで、ずっとそっぽを向いていたマゴーがこちらを見ていることに気づいた。硝子のように透き通った目がきらきらと無垢な光を宿している。
「悪かったわねぇ……意地悪言って」
「気にしてませんよ」
「それはそれで腹立つわ。……いいわねぇ、あんたは大事にされていて。アタシなんて、きっとあの初めましてのことだって覚えられてないわ。今回偶然客になった、ワガママなクソガキ程度にしか思われてない」
腹が立つと言いながらも、その言葉にはもうヘンナに対する棘はなかった。ただ、語尾に寂しさの名残のようなものがあるようだった。
ヘンナはリトリアを思い出す。いつも誇り高く、うつむくことなんてなくて、堂々とヒールを鳴らして歩く。美しいけれど、近寄りがたい孤高の人で、常に人を圧倒する。だから、昨日や今日のように同じ土俵に立って言い合いするのは、少なくともヘンナは初めて見た。
「師匠は、マゴー様を認めていると思います。普段はあんなに口出ししたりしませんから」
「それこそ、アタシがクソガキだからじゃないの?」
「師匠は、興味のないものは無視します。自分に必要なものだけを選びとって、それを糧にする人ですから」
リトリアは、優しいけれど厳しくもある。自分が高みにいるという誇り高さが人一倍あるので、多くの人を自分が導くべき弱者と判断する。施しはするけれど、同じ位置に人を近寄らせない。弟子のヘンナはまた特殊ではあるが、親しく話すということをほとんどしない。だから、マゴーと遠慮なく話す姿にヘンナは驚いたのだった。
そう伝えるヘンナに、マゴーはむにゅむにゅと口の端を動かす。
「別に慰めなんかいらないんだからねぇ。……でも、そういうことにしてあげてもいいわ」
照れる子どものような仕草にこっそり笑いながら、ヘンナは全てのつめを研ぎ終えた。終わりましたと声をかけると、マゴーはすぐさま両腕を伸ばしてつめを見つめた。
「いかがでしょうか?」
「……悪くは、ないのかもねぇ」
椅子から立ち上がると、マゴーは踊るように腕を大きく動かした。その動きとともに、部屋の照明につめが反射する。月の形がはっきりとわかるのではなく、一瞬の残像のように現れて消える。マゴーのつめはもともときれいに手入れされていたので、つやのない削った箇所があってもそこまで不格好には見えない。
ただ、いつまでこの状態が保てるかという点がヘンナには心配だった。わざとでこばこがある形にしているせいで、ちょっとしたものにつめが引っかかって、つや部分もぼろぼろと欠けてしまうおそれがある。
「マゴー様、そのつめの欠点は形が崩れやすいことにあります。申し訳ありませんが、明日までできるだけ手を大切に扱ってください」
「ああ、たしかにねぇ。自分の指で触るのもあんまり良くなさそう……」
ひらりと自分の手を翻して確認すると、マゴーは振り返って道具の片付けをしているヘンナに向かってうっそり微笑んだ。
「なら、明日のパーティにあんたも参加しなさい。そしたら、万が一があっても直前まで整えられるでしょう?」
「え、私が貴族様のパーティなんて……」
「あんたの師匠に頼めば大丈夫よ」
困惑するヘンナの足元で、ロウソンがわふんと首をかしげている。拒否することはもちろんできなかった。
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