第34話 浮きあがる月

 使用人に案内されて、また同じ作業部屋に案内される。扉が開かれると、昨日と同じように色が宙を漂っていた。しかし、昨日に比べて色の動きは悪く、ふらふらと頼りない軌道を描いている。白いキャンバスに向かうマゴーは、だらりと両腕を垂らしてただ立っていた。

 ヘンナは、師匠が魔法を使う前に部屋に足を踏み入れた。着ている服は汚さないように、しかし迷いなく真っ直ぐマゴーの前に立つ。


「ごきげんよう、マゴー様。……あなたのつめを整えにきました」

「……なに? よくアタシの前に顔出せたわねぇ」


 一拍遅れて、やっとマゴーは言葉を返した。しかし、相変わらず視線はまっさらなキャンパスを見つめたままだった。よく見ると、目の下に隈ができている。しかし、それすらも陰影となった横顔が美しい。

 泳ぐ色をくぐり、ヘンナはもう一歩前に出た。


「私は、師匠のように絶対にこれが美しいと思う理想をまだ持っていません」

「だから何? できないことをアピールして、可愛がってもらいたいのなら相手を間違ってるわねぇ」

「でも、やりたいことはあるんです。あなたが、自信を持って一世一代の舞台に立てるつめにしたい。……チャンスをください。これが、私のどうしてもやりたいことなんです」


 火のように熱くはなくとも、どうかこれが情熱でありますようにという祈りを込めてヘンナはマゴーを見つめた。

 ぱっと暗紫色のつめの手が持ち上がった。途端に部屋の中を所在なさげに浮いていた色たちが消える。しかし、マゴーの表情は暗いままだった。特に期待も込めずにヘンナを見て、部屋の片隅にぽつんと置かれている一脚の椅子に座る。


「アタシ、あんたに関わっている時間はないのよねぇ。だって、明日がお披露目なのよ。……ちょっと休憩するだけ。その間だけ、つめ一本貸してあげる。それで駄目なら、邪魔だからとっとと帰って」

「ありがとうございますっ」


 ちらりと振り返ると、話を聞いていた使用人がテーブルと椅子を台車に乗せて持ってくるところだった。つめを整えるために最低限必要な空間が素早くつくられる。

 ヘンナは鞄からエプロンを取り出してきゅっとひもを結んだ。離れたところで、リトリアがこちらを静かに見守っている。弟子に近づいて、手助けをする素振りは見せなかった。鞄から出てきたロウソンがテーブルの下でいつものようにお座りをする。


「それでは、始めさせてもらいます。手袋をつけて触れたほうがよろしいでしょうか?」

「どうでもいいわ。少しはマシなパフォーマンスができるほうでやってよねぇ」


 投げ出すようにテーブルの上に片腕が乗せられる。その目は相変わらず白いキャンバスに向けられていた。

 手袋をつけないことにしたヘンナは、向かいの席に座ってやさしくマゴーの手を引き寄せて、手首を乗せる台の上に乗せた。つるりと大理石に触れるような滑らかさと冷たさだった。つめの形は完璧に整えられているし、甘皮もきちんと処理されて、指の輪郭すら美しい。固くなっている指先を少しでも和らげるように、ヘンナはマッサージしながらサントマ聖水で手を清めた。そして、ベースコートを少し厚めに塗っていく。


「まず、つめの表面をコーティングしていきます。これを乾かして、さらにクリアカラーのスライムジェルを塗って、トップコートを」


 やっていく工程を説明していくが、マゴーからの反応はない。道具の中から、輝石ライトを取り出してつめに当てて乾かしていく。乾いたら、またすぐに厚く塗っていく。通常に比べて、大分分厚い仕上がりになる。全て塗り終えるて、つめがつやつやと光る。

 ここまでが下準備、あとはつめ研ぎ師としても技量にかかっている。ヘンナはやすりを取り出した。


「分厚く塗ったつめを、上から研いていきます。工程は、これが全てです」

「……全て? これがあんたの全部ってこと?」

「はい。ここに私の持っている全てを懸けます。真ん中を残すように、外側だけ研いていきます」


 まずは目の粗いやすりで、慎重に円を描くように外側を削っていく。あまり深く削らないように、ちょっと浮かせるぐらいの力で削る。するとつめの真ん中だけにつやができる。

 乾いた筆先でつめの上を払って、研いてできた塵を取り除く。


「それで終わり?」

「いいえ。さらに、研きます」


 ヘンナは、薄い板型のつめを置いて、ペンの先に研き石がついているやすりを取り出す。今度はもう少し力を込めて、ぐるりと真ん中のつやの形を整えるように削っていく。新月から少し膨らんだ三日月の形だ。そして、仕上げにやすのペン先の角を使って、下にあるつめを傷つけないように深めに削る。

 ヘンナは、この工程を何度も人工つめで練習した。朝になったら本屋に走っていって、月の満ち欠けが図になっているものを買いにいった。そして、師匠が来るまで何度もやり直した。一日にも満たないそれ、あまりにも持っている時間が少なかった。

 乾いた筆でもう一度払って、上からオイルを塗り込む。これで、完成になる。塗って、削って、研いた、ただそれだけ。でも、これがヘンナのできる全てだった。


「できました」


 真ん中の三日月型だけがつやっと光を反射して、その輪郭は深く研いて輪郭となっている。指で触れるとでこぼこと段になっているのがわかるだろう。外側の荒く削った部分はぼんやりと光を反射する。

 手を持ち上げたマゴーが、腕を傾けて光にかざしながらつめを無言で眺める。表情は特に変わらなかった。


「何で、こうしようと思ったの?」

「月を観察して、私は月はただの浮かぶ白い塊ではなく光そのものなんだと思いました。なので、光を利用して月を表現したいと思ったんです。それと、マゴー様は実際にその場で絵を描くと聞きましたから。光の当たり具合、手の動かし方によって、月が現れて消えるという動きがあったらいいのではと考えました」


 夜道に、クローの瞳に映った月の陰を見てヘンナは思いついた。顔の向きによって、瞳の中の月は大きくなったり小さくなったりする。目を離せないと、あのときヘンナは感じた。

 ただ、これはヘンナが一日に満たない時間考えて思いついた方法だった。何年もかけて美しさを描こうとし続けたマゴーが納得できるかわからない。人によっては中途半端に塗っただけ、もしくは日の経過とともに剥げてしまったつめのようにも映るかもしれない。


「ふぅん。……アタシが凶星だと思ったのは、間違いだったって言いたいの?」

「間違い、ではないです。ただ、私が表現できるあなたの月をつめにつくりました。……リムーバーをつければ、すぐに戻せます」

「あっそ、腹立たしいわねぇ」


 駄目だった。たった半日の努力だからと思いながら、それでもうまくできなかった自分がヘンナは嫌だった。

 きゅっと頬の内側を歯で噛んでいると、ふんっと鼻を鳴らされる。


「順に月を膨らませていって、5本目で満月にして。そこからまた欠けていって、最後は新月にしてちょうだいねぇ」

「え」

「え、じゃないわよ。ちょっと小ましな思いつきしたからって調子に乗らないでよねぇ」


 そう言って再びテーブルに手が置かれる。じわっとヘンナの目の奥が熱くなるが、涙なんて交じったら台無しになる。落ち着くために大きく息を吐くと、ため息をつかれたと思ったからかマゴーが何よと不機嫌そうに声を上げる。


「違う人間にアイデアを先取りされて悔しい気持ち、あんたにはわかんないの?」

「お願いしますと素直に言えばよろしいのではなくて。ひねくれた言葉で伝わるなんて、うちの弟子に甘えないでほしいですわね」


 すかさずリトリアの声が飛んでくる。ぱたぱたと扇をあおいで、ヘンナと同じぐらいつかれた顔をしている。後ろから見守っているだけでも力んでしまったらしい。


「あえて粗い箇所をつくってつや部分を浮かせる発想ですのね、興味深いわ。わたくし的には、研き途中のようでちょっとそわそわしますけれど」

「落ち着かないのなら、出ていってくれない? アタシも、あんたがいると落ち着かないのよねぇ」

「ああぁら、そう? では、わたくしはお茶をいただいてきますわね。……ロウソン、何か粗相があればすぐに主人を守りなさいね」


 急にリトリアに名指しされたロウソンは、わひんと甲高い声で鳴いた。くるんとターンをする姿も上品に、特に抵抗することもなく出ていってしまう。残されたのは、ヘンナとマゴーとロウソン、それから扉横に待機している使用人だけだった。

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