第33話 まだ格好がつかない
静まり返った空気の中、がちんと固いものがぶつかる音がした。鞄から飛び出たロウソンが、がちがちと歯と歯を噛み合わせて威嚇している。ヘンナが慌ててぎゅっと抱き締めた。
「違う、ロウソンっ! 今回は助けてもらったのっ!」
「……今回は、という前置きがついてしまうな。人通りも多いし、さっきみたいに人にぶつかっても危ない。移動したほうがいい」
「あっ……!」
また行ってしまうと思ったヘンナは、思わず声が出てしまった。その漏れた声をしっかりと耳で拾ったクローが、進みかけていた足を止めて振り返る。
「どうした? まさか、怪我でも?」
「いいえ……。ごめんなさい、気のせいだったみたいです」
少し小走りでクローと隣に立ったヘンナは、見失わないように並んで歩いた。腕の中で、ロウソンがわふんと鳴いた。
「あの、助かりました。ありがとうございます」
「いや。たまたま見かけて、それでつい……つい心配でなんて言い訳にならないな。少し追いかけてしまった。すまない」
「べつに、普通に声をかけてもらえばいいです」
「私が、君に?」
「あなたが、私にです」
通りを抜けると、人の流れは随分ましになる。別れ道のところで足を止めた隣の人をヘンナは見上げた。少しためらって、クローは空咳をした。
「じゃあ、夜道は暗いから、君の家の近くまで送ってもいいか」
「はい、お願いします」
「なら、行くか」
また、再び並んで歩き出す。今日は月が明るく、目を凝らさなくてもお互いの顔がよく見えた。黙ったまま、お互いに会話の糸口を探す。
かさっと音を立てた持ち帰り用の紙袋を見て、ヘンナはぽんと言葉を投げた。
「今日は、フライドフィッシュのロールを買いました。いつもはチキンなんです。でも、久しぶりに魚がいいなと思ったので買いました」
「そうか。私は、魚が好きだ」
「知ってます。フライドチキンもおいしいですけど、フライドフィッシュもおいしいと思います。なので、クローさんにもあそこの屋台をお勧めです」
ぽつぽつと片言のようにしかヘンナは話せない。むしろ、最初に会ったときのほうがうまく話せていた。こんなふうになってしまうのは初めてで、どうすればいいかわからない。
すんと鼻を鳴らしたクローが、いい匂いだとつぶやく。
「君が好きな店なら、いつか私も行ってみよう」
「好き、というか、おいしいお店でおすすめです」
「おいしくておすすめなら、好きじゃないのか?」
「好きっていうほどの熱がないんです。私、何というか、冷めている人間なので」
「君が、冷めた人間……?」
くっと笑い声が漏れる。よほど面白かったのか、クローは背中を丸めて肩を揺らしていた。まさかそんな反応をされると思わなかったヘンナがじいと見ていると、何とか笑いを抑えようと息を殺したクローがごめんと言った。
「いや、でも、私が脅しても一切退かず、怪我人が危なければ身体を張って、一人の客のために朝から下見をする人が冷めてるなんて、私は思わなかった。君は、いつも仕事に情熱を持っている」
「それは、受け売りというか、師匠の真似のようなものだと思いますよ」
「真似すらできない人間なんて数えきれないほどいる。……じゃあ、君の思う情熱って何なんだ」
「強い衝動のような、誰にも止められないような、人目も気にしないような……情熱って火とも例えられますね」
「ああ、火か」
ぼっとクローの手の中で火が点る。ゆらゆらと夜の闇の中で明るく、人に温もりを与え、ときには道標ともなる。
「火は一瞬だ。ぱっと燃えて、一気に大きくなり、派手で目立つな。火という意味では、君は当てはまらないかもしれない」
「そうですよね」
「君は火じゃなくて、何だろうな、例えるなら木かもしれない」
ぱっと火を消したクローが、思いついたようにそう言った。木と言われて、つめが緑だからだろうかとヘンナは自分の手を見た。やっと土から顔を出した新芽のようとは言われたことがある。
色じゃないとクローは言った。
「自分たちよりもずっと大きい木も、最初は小さな芽だ。人は植物の成長になかなか気づけないが、ゆっくりと時間をかけて枝を伸ばして、いつのまにか木陰をつくる。時には岩も動かすだろう。君は、火よりも木に似てる」
「それって、情熱と言ってもいいんですか?」
「ゆらゆら形を変える火と比べて、木はどっしりと……いや、女性にどっしりは失礼か。あれだ、しなやかでいいんじゃないか」
「どっしり……」
失言したと思ったのか、本当にごめんとクローが謝ってくる。ヘンナは別に怒ってはいなかった。ただ、少し驚いていた。いつも不思議なくらい、クローの言葉で心が揺さぶられる。風に揺れる木の葉のようだった。
じっと上を見て言い訳を考えているクローの瞳に、月の影が映っていた。
「……少し、わかった気がします。ありがとうございます」
「いや、すまなかった。もう少し良い例えがあれば良かったんだが」
「いいえ、うれしかったです。褒めてくれているんだなっていうのは、わかりましたから」
何だかするりと気が抜けて、ヘンナの肩の力が緩むようだった。自然と声を出して笑ってしまい、その顔を見たクローが息を詰まらせる。
「いつも君がそうやって笑ってくれるから、私は格好悪くなるんだな」
「え、別に馬鹿にしたくて笑ったわけじゃないです」
「わかってる。……ああ、もう君の家が見えてきてしまったな」
あと数十メートルというところで、クローは足を止めた。
「じゃ、ここで」
「えっと、はい。それではまた」
「……ああ、また」
手を振られて、ヘンナはぺこりと頭を下げて自分の家へと近づく。途中で振り返ると、そこにはもうクローはいなかった。
わふわふと今まで大人しくしていたロウソンが鳴いた。
「うん……。帰ってご飯にしようね、ロウソン。それに、私やりたいことが思いついたの」
ヘンナはもう一度月を見上げて、はやる気持ちで玄関を開けた。やりたいことをやるには、時間が足りないくらいだった。
マゴーの初対面から夜が明けて、太陽は引き留める声も無視して上がっていく。約束の迎えの時間になって、ヘンナは寝不足の顔を見せることになった。顔を合わせた途端に、まあぁとリトリアが悲鳴のような声を上げる。
「昨日、寝不足は駄目だと言ったばかりですのに。昨日よりもひどい顔になっているんじゃありませんこと?」
「どうしても時間が足りなくて。師匠、私、試したいことがあるんです」
「……それは、そんなに無理をしてでも?」
師匠の質問に、ヘンナは戸惑うことなく返事をした。
「はい」
「よろしくはありませんけれど、理解しましたわ。……予定を遅らせます。少し仮眠をしていらっしゃい」
「え、でも」
今すぐにでも行こうと、ヘンナは服も着替えて鞄も肩にかけて準備万端だった。しかし、リトリアはヘンナの肩を居住スペースのほうに押し出して、後ろに控えているハンドマンに遅れる連絡をするよう指示を出す。
「時間になったらちゃんと起こしますわ。……寝不足で手がふらつくなんてことで、やりたいことができなくなったら困るでしょう」
「あ……ありがとうございます、師匠」
「まったく。子どもって、何でこんな見ていない一瞬で成長するのかしらね」
優しい紫を持つ手に頭を撫でられて、ぱたんと倒れるようにしてヘンナは仮眠を取った。もう一度急いで準備をしてマゴーのいる屋敷に着いた頃には、時間は午後のお茶の時間になっていた。
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