第32話 月の下の邂逅

 もぐもぐ咀嚼するヘンナに、リトリアが横でお茶を飲みながら口を開いた。


「わたくし、明日もここに来て、今度こそ縛ってでもつめを整えさせますわ。……その前に、同じ時間にあなたのお店に寄ります。まだやれることがあると思うのなら、一緒にいらっしゃい」

「……でも、うまくできる気がしません。師匠の貴族様への信頼を落としてしまうかも」

「失敗することについては、心配しなくてもよろしくてよ。今回の依頼、本来あるはずの前金すら後払いにさせてほしいと言われましたの。最近いい噂も聞きませんし、依頼人の貴族様は少しきな臭いんですわ」

「え、ええ?」


 思わずヘンナは辺りを見回した。少し離れた温室の入り口脇に使用人が控えている。しかし、聞こえているのかいないのか表情は変えず、こちらを見たヘンナに愛想よく笑いかけてくる。とりあえず笑い返して、ヘンナは顔を戻した。膝の上のロウソンもわふわふきょろきょろしている。リトリアは涼しい顔をしていた。


「依頼を受けるときに、本人にも申し上げましたわ。へらへら笑って誤魔化されましたけれどね。……さすがに正当な理由もなく貴族の依頼を断れませんでしたわ。それに、貴族のお気に入りの最新の芸術がどんなものか見てみたかったんですの」

「そうだったんですね……」


 金払いの悪い、怪しい貴族ということもあって、そんな後援だからこそマゴーも不安になっているのかもしれない。

 頭の中で考えを巡らせるヘンナに、リトリアが付け加える。


「勘違いしないでほしいのですけれど、別に重要じゃないからあなたに任せようと思ったわけではなくてよ。どんなものであろうとも、誇りある仕事をつめ研ぎ師はするべきですものね」

「はい。もちろんです、師匠」

「よろしくてよ。つまりね、失敗してもいいとは言いませんけれど、失敗するかもしれないぐらい大胆にやってくれても構わないということですわ。だから、つめ研ぎ師としてやりたいことがあるのならやってごらんなさい」

「でも、何も思いつかないんです」

「今すぐというわけではありませんわ。それでも短いかもしれませんけれども、明日もう一度聞かせてちょうだい。それでいいかしら?」


 リトリアは、まだヘンナができると信じているようだった。それがうれしくも、期待が重く感じる。ヘンナは、ただこくりとうなずくしかなかった。

 相手不在のお茶会を十分に楽しんで、二人は屋敷を後にした。来たときと同じように、リトリアのハンドマンの運転する魔導車の揺られる。窓の外の景色は暗くなっており、ぽつぽつと外灯が点き始めている。

 高級住宅街を抜けたところで、ヘンナは声をかけた。


「あの、ここで下ろしてもらえませんか?」

「あら、家まで送りますわよ」

「途中で晩御飯を買っていこうと思うんです。師匠、今日はありがとうございました」


 家に帰っても、料理をする元気はないだろう。途中の屋台や食堂のある通りの手前で下ろしてもらって、ヘンナは師匠と別れた。魔導車を見送っていると、また小さくなって鞄の中に収まっていたロウソンがわふと鳴いた。


「今日はおつかれさま、ロウソン。ご飯買ってすぐに帰ろうね」

「わふむ」


 ロウソンは少し眠そうだった。慣れない場所を歩き回って疲れたのかもしれない。人通りの多い道に出してあげることもできず、ヘンナは軽く鞄を揺らした。

 この通りは、昼よりも夜のほうがにぎわう。料理をしない人々のために夜だけ開かれる屋台やお店が多いからだ。あちこちから揚げ物や焼き肉、甘い匂いから刺激的な辛い匂いまで漂ってくる。テラス席では、仲良く家族団欒をしていたり、友人と騒いだり、恋人と微笑みあったり、もしくは一人でものんびりと食事を楽しんでいる。

 目移りしながら、ヘンナは結局よく立ち寄る屋台の前で足を止めた。ここは使い魔専用のメニューも用意している。


「すみません、使い魔用のチキンバーガーと……フライドフィッシュの赤チリソースロールをお願いします」

「あいよぉ。嬢ちゃん、魚を選ぶのはめずらしいな。いつもフライドチキンのロールを選ぶのに」

「ちょっと、いつもと違うことをしたい気分になって」


 屋台の主人はそりゃいいねと豪快に笑いながら、目の前で衣のついた魚を油で揚げていく。ぱちぱちと油が跳ねて、グローブで手を覆っていても手首には火傷の痕がある。やりたくない仕事の一つと言われるものを生業にして、男は豪快に笑う。


「食べるってのは何度も味わえる幸せさっ! そこに新た選択が増えれば、幸せも増える。幸せそうな顔を見て、俺はにやりとほくそ笑む。これが生活ってもんだっ! ほい、いっちょお待ち!」


 断熱性の優れた丈夫な紙袋に入れられて渡される。持ち帰りの際は、どこの店でも同じものが使われる。違いといえば、押されている店名のスタンプぐらいのものだ。


「ありがとうございます。今度うちにいらっしゃるときはサービスします」

「なんだい、そんなこと言われちまったらこっちもサービスしないわけにはいかねぇな。ほら、揚げイモだっ!」

「え、そんなつもりじゃ……」

「いいからっ! こういうのはお互いさまって決まってんだろう!」


 支払って分のおつりとさらにおまけまで渡される。ふわりといい匂いがする袋を、ロウソンにつまみ食いしないように言いつけてから、鞄の端の金具部分にひっかけた。さすがに仕事道具と一緒にはできない。

 ブンブン手を振る店主に頭を下げて、ヘンナは帰り道を歩いた。

 空には月が昇っている。少し雲はあるけれど、その姿ははっきりと見ることができた。太陽とは違ってまっすぐ見つめることができるけれど、思ったよりも月光は明るく、輪郭はおぼろではっきりしない。


「月……」


 思わず立ち止まって、ヘンナは月を見上げた。マゴーはどんな月がいいと言っていたのか。彼の理想は何なのか。

 多くの人の通る道で、足を止めていたヘンナはどんと後ろからぶつかられた。あっとふらつきながらも振り返ると、そこには少し顔を赤くした男が一人。まだ夜も更けていないというのに、すっかり酒に酔っているようだった。手には食事持ち帰り用の袋がぐしゃっと握られている。


「ぶつかってしまってごめんなさい。では、失礼します」

「あぁ、まてまてぇ姉ちゃぁん。見たところ、あんたも一人さびしく飯なんだろぉ。ぶつかったのもうんめぇえってことでぇ、一緒に食わねぇか?」

「一緒に食べる相手がいるんです。だから、早く帰らないと。ぶつかったのは本当に申し訳ないです」


 早く家に帰ってロウソンと晩御飯にしたかった。だらりとした腕を振って肩を組んでこようとしたのをヘンナが避けると、顔を赤くしてへらりと笑っていた顔が豹変する。


「いいからっ、来いって言ってんだよっ! さっさとしろっ!」


 ヘンナの手を無理矢理つかもうとする手が伸びて、鞄の中のロウソンがぶるっと震える。ロウソンと声を出して呼ぶ前に男の伸ばそうとした腕は、肘部分を横からつかまれて止められた。そして、ぐいっとヘンナから離すように後ろに引っぱられて男はよろよろ後方に下がらせられる。

 それらを行ったのは、赤いつめの持ち主だった。


「彼女はもう相手がいるって言っただろう? 振られたのならさっさと身を引いたほうが、これ以上格好悪くならなくていいんじゃないか?」

「あ、ああぁっ?」


 状況を理解しきれていない男が、ぼんやりした瞳に敵意を現す前に、クローはその肩に手をおいた。そのまま肘を曲げて、ぐっと喉を圧迫するように腕を押し当てる。


「なぁ、そう思うだろう?」

「あ、ぐぅ、し、知るかそんな地味な女ぁっ!」


 クローがぱっと手を離すと、男はよろけながら逃げるように去っていった。

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