第31話 現実逃避の理想

 黙り込んで考えるヘンナに、だるそうに背もたれに頭を預けたマゴーが声をかける。


「さっきからアタシの望みにはいはい言って頭悩ませてるけどねぇ、あんたには絶対これがいいっていう理想はないの?」

「私の理想ですか?」

「そうよ。あんたが人生かけて情熱を注ぐほどのものを聞かせてくれるのなら、意見を変えたっていいわ。アタシの要望を変えられるほど熱のある代案はないの?」

「意見を変えるほど、熱のあるもの……」


 ないとヘンナは思ってしまった。誰かの意見を変えてしまうぐらいなら、いつも自分の意見など捨ててしまっていたから。誰かの意見を受け入れるばかりだった。

 何も言わなくなった様子を見て、マゴーはもういいわと立ち上がった。


「あんなに言うから付き合ってあげたけど、やっぱり時間の無駄だったわ。自分の意見もない人間を相手する気はないの。もう二度と来ないでちょうだい」

「あ……!」


 完全にヘンナを視界から外して、そのまま出ていこうとする素振りを見せる。このままでは師匠の顔に泥を塗ってしまうとヘンナが引き留める前に、ばさっと扇が開く音がした。扇を広げたリトリアが、表情を隠すようにして手を顔の前に持ち上げていた。これは、歪んだ表情を見られないようにするときのリトリアの癖、つまり彼女は怒っていた。

 失望されてしまったとヘンナはうつむくが、ぴんと張った糸のような緊張感のある声がかけられたのはマゴーだった。


「いい加減にしてくださる? あなたの苛立ちをただぶつけられていいほど、安くはなくてよ」

「何? そんなにその従順な弟子がお気に入りなの? だけど、こっちはそんなの相手に――」

「あなた、ヘンナを困らせるためにわざとやっているでしょう。どんな意見を聞いても、受ける気もないのでしょう」

「……言いがかりは、よしてよねぇ」

「先日、わたくしがあれだけ熱心に代案を出しても、凶星、凶星と、これが自分の芸術と言って一切受け付けようとしなかったわ。それが今日になって、寄り添おうとしたヘンナ相手には代案を出せだなんて。あなたの芸術はころころ意見を変えるんですのね」


 マゴーは図星を刺されたように、居心地悪そうにその場でゆらゆら足踏みをする。ヘンナは、それがふと不貞腐れた子どものように見えた。

 さらに、リトリアは矢のように言葉を突き立てる。


「そもそも、あなたの後援の貴族がわたくしに依頼しましたの。つまり、あなたにパーティにふさわしいつめにさせたいと思っていますのよ」

「……そうよ。でも、失敗。あんたたちの評判はがた落ちね」

「目を反らすのがお好きなようだから、はっきり言わせていただきますわ。あなたに拒否する権利などありませんの。このまま凶星をつめに浮かばせたいなんて言い続ければ、そもそもあなたは御披露目の場にも出させてもらえなくなりますわよ。……本当は、わかっているのでしょう?」


 庶民よりもさらにお金と手間をかけて手入れする貴族が、凶星を受け入れるとは到底思えない。いくらマゴーを気に入られているとはいえ、凶星のあるつめの芸術家を紹介すれば貴族の信用問題にも関わる。御披露目に人生をかけるというのであれば、できたとしてもマゴーの望みは叶えられるべきではない。それは、本人もわかっていた。


「あんたなんかっ、アタシのことなんて何も知らないくせにっ!」


 そう言い捨てて、逃げるようにマゴーは温室を出て行ってしまった。ヘンナは一瞬腰を浮かせかけたが、やっぱり座り直した。

 静かになった温室で、ぱちんとリトリアが扇を閉じる。


「思ったよりも難しい案件をあなたに頼んでしまったかもしれませんわね。あそこまでひねくれるようになったとは思いませんでしたわ」

「その、師匠、せっかく紹介してもらった案件だったのに、申し訳ありませんでした」

「なぜ謝るんですの? さっきも言ったけど、あれはあなたに意地悪してただけですわよ」

「私がきちんと答えていれば、もう少し話をしてくれたと思うんです」


 情熱をかけるものと言われてヘンナは何も思い浮かばなかったし、それを見てマゴーががっかりしたのも事実だろうと考えていた。思い浮かばなかったとしても、何か意見を言えればよかった。


「もう少し話せれば、もっとマゴー様の望みや思いがわかったんだと思うんです」


 何もできなかった自分が悔しくて、膝の上に乗せていた手が震えた。それを寒がっていると勘違いしたのか、足元にいたロウソンがぴょんと膝の上に乗ってきた。強張る手でその頭を撫でるヘンナに、リトリアがくすりと笑った。


「わたくしが、なぜあなたにこの仕事を任せようと思ったか、わかるかしら?」

「それは、私の人脈を広げようと思ってですよね」

「それもありましてよ。でも、一番はあなたの顔が思い浮かんだからですの」


 お茶の入ったティーカップを両手のひらで包むように持ち上げて、ふうっと息継ぎするようにリトリアは一息ついた。


「あの人の滅茶苦茶な要望を聞いたとき、わたくし呆れましたのよ。誰でも気づくような無理をわざわざ人に言って困らせて、それで自分の未来を閉ざそうとするなんて、理解できない行為ですわ。……そのとき、わたくしよりあなたが適任だと思いましたの」

「何でですか? 私、師匠よりもできることなんてないです」


 リトリアが進んでやろうとしないだけで、フェルムネイルも恐らくヘンナよりも鮮やかに美しくできるだろう。気が進まなくても、つめ研ぎの技術は全て習得する人だからだ。

 わからないヘンナに、リトリアが目を柔らかく細める。


「師匠ですもの、もちろん技術では負けなくてよ。けれど、わたくしは人に寄り添うことができませんわ、わからないんですの。自分のために、田舎娘から無理矢理這い上がって、時には人を蹴落として、ただひたすら上を目指しましたから。わたくしは誰も省みませんでした。でも、後悔はないんですの。これからも自分を第一にして生きていきますわ」

「師匠は誇り高くて、情熱的で、芯があって素敵です」

「ふふ、ありがとう。でもね、そんなわたくしでは扱い切れない人がいますのよ。さっきの、マゴーのようにね。だって、わたくしはもうふん縛って無理矢理つめを手入れするぐらいしか思いつきませんもの。それでも嫌がるなら、もう知ったことではありませんわ。土壇場で怖じ気づいて逃げ出した者たちなんて、それこそ星の数ほど見ましたから」

「……人生をかけているのは、本当だと思います。でも、それだけ大きな夢だからこそ不安になっているんじゃないでしょうか」


 熱っぽく自分の芸術を語るマゴーが嘘だったとは思わない。それほどの夢を自分で壊すような言動をしているのは、矛盾ではあるけれど、自分でもどうしようもないのではないかと、ヘンナは思っていた。自分の感情が制御できなくて、素直になれない子どものように見えたのだ。

 ロウソンの頭を撫で続けるヘンナの手の上に、やさしくリトリアの手が重なった。


「そうやってあなたは誰かに寄り添える。それは、わたくしにはできないことだわ」

「自分の意見がなくて、ただ相手の顔色をうかがっているだけだと思います」

「どうして美点をわざわざ悪く言い換えるのかしら、あなたって子は。それに、わたくしそんなふうに思ったことなくってよ。だって、このわたくしに初対面で小さな女の子が弟子入りをお願いしたんだもの」

「あれは、とにかく必死だったので……」


 リトリアとの初対面は、祖母の葬式だった。突然現れた迫力のある女性が有名なつめ研ぎ師だという話を耳にして、必死に追いかけて懇願したのだ。今思い返してみると、自分でも無謀なことをしたとヘンナは感じている。

 あの日の幼い少女を透かして見るように、リトリアは顔を覗き込んだ。


「ヘンナ、正しさは一つではないわ。わたくしの正解がこういう形であっただけですのよ。あなたがそうである必要はないの。それだけは、わからなくても覚えていてくれないかしら」

「私の理想は、身の丈に合っていなかったですか?」

「それは、まだ判断するべきではないですわ。理想は常に同じ形をしていませんし、あなたはまだ成っている途中ですものね。今ばかり気になるけど、いつかというのは必ず来るものでしてよ」


 いつも自信に溢れて、迷いのない、素晴らしいつめ研ぎ師にヘンナは憧れていた。感じる不安の大きさに怯えて、穏やかでありたいのにいつも心は波打っていて、自分の気持ちを楽にしたいからそうなりたいと思っているのを見透かされたのだろうかとヘンナは、リトリアの顔をうかがった。

 まっすぐにこちらを見る師匠の瞳は、やわらかな光でこちらを映している。不安になるには、あまりにも穏やかだった。まるでぐずる子どもを寝かせるような手つきで、ぽんぽんと重なる手をやさしい調子でたたかれる。だから、ヘンナはわからなくてもうなずいた。


「わかりました。心に、留めておきます」

「ええ。いつか、わたくしの言葉の答え合わせをしてちょうだい」


 そっと離れていくリトリアの手が離れていくことに、ヘンナは寂しさを感じた。

 思わず目で追った、葡萄酒のようなつめを持つ美しい手は、そっとヘンナの前のお皿の上にキャロットケーキを乗せた。


「まずはお食べなさい。なかなか美味でしてよ」

「はい、師匠」


 手に負担がかからない軽いフォークを手にとって、ヘンナはキャロットケーキを突き刺した。すりつぶした人参入りの生地はずっしりと重い。一口食べるとぴりっとするぐらい香辛料が効いていて、上にたっぷりかかっている甘い砂糖のアイシングがほどよく和らげてくれる。

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