第30話 つめの凶星
お茶の席として用意されたのは、全面硝子張りの温室だった。ヘンナが見たことのない植物の多くが緑の葉を繁らせていたが、やはり橙色の花や果実を実らせているものが多かった。その中の一つをもぎ取り、マゴーはかじりつきながらセッティングされたテーブルの傍らの椅子に座った。使用人に椅子を引かれて、ヘンナとリトリアも席に座る。テーブルの上には、咲き乱れる橙色の花が絵付けされたカップ、そしてスコーンにオレンジジャム、バター、つやつやのチョコレートミニタルト、キャロットケーキが並べられていた。
「その窮屈そうな鞄から、あんたの使い魔出してあげればぁ。アタシは別に一匹増えてうろちょろされても気にならないわ」
「ありがとうございます」
マゴーの提案にヘンナはお礼を言って、そっと鞄を開いた。ぴょんと小さくなっていたロウソンが飛び出して、わふんと鳴く。ぱたぱた尻尾を振るので、その頭を撫でた。
で、とマゴーが行儀悪く横向きに足を伸ばしながら口を開く。
「それで、アタシのつめをどうしようって?」
「お茶の席で急ぐなんてもったいなくてよ。ヘンナ、改めて自己紹介を」
「はい、師匠」
椅子に座ったヘンナは、自分のつめがよく見えるように腕を持ち上げた。
「リトリア師匠の弟子のヘンナと申します。つめ研ぎ師の国家資格は6年前に取得しています。それから……」
「ああ、能書きはそれぐらいでいいわぁ。アタシにとって重要なのはそこじゃないから。……あんた、アタシの作品知ってる?」
ヘンナの言葉を遮って、見定めるように顔を向けてくる。何と答えるべきかと悩んだヘンナに、知らないのねと湯気をたてるお茶をぐいっと飲んだ。どうしようとうろたえる隣で、リトリアがミニタルトを上品に口に運びながら口を挟む。
「わたくしも、この依頼を受けるまで知りませんでしたわ。そもそも、あなたは2日後のパーティでやっと御披露目されるのでしょ。今のあなたを知る方はまだ少ないですわね」
「そうよ、2日後には誰もがアタシを知ることになるわ。その舞台のためにと、わざわざあんたたちが呼ばれたってわけねぇ。ぜぇんぜん意見が合わなかったけど」
つまり、マゴーの人生がかかっている、一世一代の御披露目の場にふさわしいつめが望まれているということだった。それこそリトリアがやるべきではとヘンナは考えてしまうが、さっきの会話を聞いた限りでは方向性の違いがあったようだった。
リトリアは自分の考える美しさをつめに体現することを信条としており、その人の手の大きさ、体型、雰囲気を見て、最も美しい状態につめをする。そのため、お客様の要望が自分の理想から離れているもの、例えばつめを長めに整えてくださいと言われても却下してしまう。それでも、リトリアにつめを美しくしてもらいたい人は後を絶たない。彼女の美学が認められているからだ。しかし、今回は相性が悪かった。
一体どんな要望をしたのだろうと、ヘンナは少し緊張しながら質問した。
「マゴー様は、どのようなつめがよろしいんですか?」
「アタシ、空をモチーフに絵を描くの。特に太陽、あの真っ直ぐは見つめられない、目が溶けてしまいそうな空の天球を表現したいの。それが気に入られて、アタシはここにいるわ」
「空に浮かぶ太陽を描かれるのですね」
望むつめを聞いたはずが、なぜか描く絵画のモチーフの話になる。太陽と言われて、ヘンナは少し顔を上げた。植物たちに遮られてはいるが、葉の隙間から溢れる日の光が眩しくて目を細めてしまう。太陽は形があるはずなのに、姿が見えない。
少しくらりとしつつヘンナが視線を戻すと、マゴーは日の光を自分のつめに反射させて笑っていた。
「常にその片鱗を享受して生きているのに、眩しくてまともに見られないなんて、仮面で顔を隠した麗しき人のようだわよねぇ。アタシ、隠された美しさって大好きよ。隠されたまま、絵の中に美しさの欠片を描くの」
「それは、大変な作業なんですね」
「もちろんそうよ! でも描かないといけないのっ。御披露目で、実際にどんなものを描くかずぅっと考えているわぁ」
「え、御披露目の場で描くんですか?」
てっきり完成した絵の横に立って自己紹介するようなものだと思っていたヘンナに対して、紫のつめを持つしなやかな手をぐるりとマゴーは回した。すると、また色とりどりの絵具が宙を舞う。
「絵筆派もいるけど、アタシは魔法制御が得意だから、主に魔法で描くわ。……こっちのほうが見映えがするし、モノさえ決まっていればすぐに完成できるから、貴族様たちに余興として喜ばれるのよねぇ。描く姿ばかりで絵に興味を持ってもらえないこともあるけど、御披露目ではその場の全員の目にアタシの絵を焼き付けてやるわ」
「そうなんですね。私も、どんな絵を描かれるのか気になってきました」
「そこで、問題なのがアタシのつめなのよねぇ。実際にその場で描くんだから、その姿、つめの先まで見られるわけ。つまり、アタシのつめ先まで作品の一部になるわけ。わかる?」
「想像でしかないですけど、マゴー様が大切にしていることはわかります」
「ふん。だから、アタシの要望は太陽の絵にふさわしいつめにしてもらうことよ」
太陽にふさわしい、つまり光を受けたようにぴかぴかに研くということか。もしくは一般的な太陽のイメージカラー橙色にしてくれ、は流石に犯罪だからないとヘンナは思いたかった。リトリアが拒否する内容とは何なのか。
その答えをマゴーはうっとり微笑みながら答えた。
「だから、アタシのつめを月にしてほしいのよねぇ」
「月、ですか。太陽ではなく?」
「アタシのつめを太陽にしたら、太陽が二つになるでしょ。追いかけても追いつけない、永遠にその後ろ姿しか見れない、太陽に焦がれる月こそがアタシだわっ! 描くテーマも太陽と月ということにしたの!」
「つめを月に見立てるんですね」
「そうよ。だから、アタシのつめに月を、凶星を浮かばせてほしいのっ!」
「は……」
マゴーの望みを聞いて、ヘンナは言葉を失った。
つめの凶星は、つめ研ぎ師として言い直すと不全角質となる。不健康な生活をしたり、どこかに指をぶつけたり、良くない手入れをすると稀につめにできる小さな白い斑点だ。白を忌み嫌う人々にとっては小さくとも恐ろしいもので、またつめに斑点ができる人はどこかに不調があるということもあって、不幸を呼び寄せる凶星とも呼ばれる。
一度できてしまうと、つめが伸びるまでどうしようもない。できてしまって慌てふためく人々のつめを、どうにか目立たないようにケアするのがつめ研ぎ師の役目だった。それが、正反対のことを言われてしまった。
マゴーは夢見るように理想を語る。
「指は十本もあるんだから、月の満ち欠けを表現してほしいのよねぇ。あまり小さい凶星でなく、目立つぐらい大きく、アタシの紫を夜空にして浮かばせて」
「どうしても、白い斑点でなくてはいけませんか?」
「なにか悪い? 塗れっていってるんじゃないんだから、罪にはならないはずよねぇ」
言っているとおり、罪にはならない。罪にはならないが、本人が望んでいるとはいえ、そのつめを見れば不吉だと周囲の人々は顔をしかめるだろう。本来、それは人に見せるようなものではない。つめ研ぎ師は、むしろそれを隠すために存在する。
ヘンナの隣でふーっとリトリアが長いため息をついた。苛立ちを発散するように、スコーンにこれでもかとジャムとバターを山盛り乗せている。
「何度聞いても気が遠くなりそうですわ。あなたの御披露目が用意されたといっても、そもそもそれは貴族の開くパーティーですのよ?」
「だからこそ、アタシの最高の芸術を表現するためのつめにしてほしいって言ってるでしょ」
「わたくし、他所の子をいちいち諭してあげるほどやさしくなくてよ」
「アタシもあんたの子になった覚えはないわねぇ」
「あぁら、そうですの。それは失礼?」
リトリアは大きく口を開けて、ジャム山盛りのスコーンを一口で食べてしまった。そんな動きですらも、下品に見えない。
ヘンナは、そっと自分の意見を述べた。
「斑点をつめに浮かばせるのはできません。技術的に不可能です。ほかの方法を考えてみませんか?」
例えばわざと偏った食事をしたり、つめをぶつけたとしても、思いどおりに白い斑点を浮かばせられるとは限らない。そんな技術は確立されていない上に、つめ研ぎ師としてヘンナもそのような要望を引き受けるわけにはいかなかった。
そう伝えても、マゴーはつまらなそうにするだけだった。
「それ、あんたのお師匠サマにも言われたわ。で、アタシを満足させるどんな方法があるってわけ?」
「そう、ですね。私が今考えられる方法だと……」
ヘンナは方法を考える。月と言えば夜で、夜と言えば星が無数に輝く。そこで、以前施術した方法はどうだろうかと思いつく。
「妖精の粉を使ったフェルムネイルはどうでしょう。形もある程度整えられます」
ちなみに師匠のリトリアは、フェルムネイルなどはつめの本来の色の美しさが薄れると言って使いたがらない。だから、これは師匠も提案していないだろうとヘンナは聞いてみた。
しかし、反応は良くなかった。
「安直だわ。流行りものに乗っかるのって、一般大衆と自分を一緒にされているみたいで嫌ねぇ。アタシは、アタシだけっていうのがいいの」
「ほかの方とは違うようなことをしたい、ということですね」
ほかの人とは違うという意味では凶星をつめに浮かばせるというのは、マゴーの望みに叶っている。つめに上から強い衝撃を与えれば、不格好でも凶星は生み出せるかもしれない。だからといって、ヘンナは安直にその望みを叶えようとは思えなかった。恐らく、そのつめはマゴーの一世一代の舞台を台無しにするからだ。
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