第29話 独創の芸術家

 ふわふわと足元が落ち着かない。それはヘンナが緊張しているというだけでなく、敷かれた朝焼けの色のような絨毯の柔らかさにも原因があった。

 ヒールで歩いていくリトリアに、ヘンナはそっと声をかける。


「ここに住まわれる貴族の方は、橙色がお好きなのですか?」

「ここは貴族本人の本邸ではなく、支援する芸術家のために与えられたアトリエのようなものですわ。でも、深橙色は趣味というか、家の色ね」

「そうなんですね」


 先導する使用人の後をついていきながら、ヘンナは長い廊下の様子を視線だけ動かして観察する。飾られている花も目が覚めるような明橙色、窓の枠の色も、研かれた鑑賞用の甲冑も、そしてこの屋敷で働く人々の胸元にあるリボンの色まで。

 貴族ともなると一族の色というものにこだわり、同系色同士で婚姻も結び、伝統の色を守るというのはヘンナも噂で聞いたことがあった。調度品や装飾品、身の回りの人間の色にまでこだわるのかと思っていると、どこまでこだわるかは個人の趣味ですわと考えを読んだリトリアが答える。


「こちらにマゴー様がいらっしゃいます」


 案内役が一つの大きな扉の前で止まり、靴先でこんこんとノックをした。しかし、返事はない。再度扉をノックして、案内役は振り返って苦笑した。


「集中されていると、こちらに気づかれないこともあるのです」


 そう言って、扉を開いた。

 部屋の中には、色が飛び交っていた。風にたなびくリボン、あるいは宙を泳ぐ蛇のように、万華鏡の中に飛び込んだような数多の色が飛んでいる。それを魔法で操っているのが、部屋の中央で壁のような大きなキャンバスを前に佇む人であるようだった。扉が開いたことに気づいた様子もなく、マゴー様と使用人に呼ばれてもぴくりとも反応しない。しかし、これでは近づくこともできない。

 ばさっとリトリアが扇を広げた。ふわりと腕を前に突き出すと、室内を自由に飛び回る色彩を払いのけるように扇いだ。途端につむじ風に巻き込まれたように、色たちは部屋の隅に追いやられる。

 そこで、やっとマゴーは来訪者の存在に気づいたようだった。


「なぁに、無粋ねぇ。許可も取らずに人の領域に踏み入るなんて。年をとるとデリカシーがなくなるのねぇ」


 不機嫌そうに低い声で呟いたマゴーは、麗しい人物だった。ヘンナは初めて、リュシーと並ぶことができる人物がいると感じた。身長は高く輪郭がはっきりとしていて風景から浮き上がるような強い存在感がある。けれど気だるげな陰を落とす佇まいと憂鬱そうな瞳がコントラストを生んで言葉にできない魅力を生んでいる。そのつめは、明るい月の晩の薄雲がかかった夜空と同じ暗紫色だった。


「あら、今日お訪ねするときちんと御連絡しましたのに。いやですわ、お若いのにもう老化が始まりましたのね。耳も遠いようですし」


 つかつかと室内に足を踏み入れたリトリアが、上品に微笑みながら喧嘩腰の言葉を吐く。その背中を追いかけながら、ヘンナは小さく悲鳴を漏らした。リトリアはこだわりは強いが、普段ならここまでお客様に高圧的ではない。

 近づいてくるリトリアを迎え討とうと、マゴーは喉仏をさらすように顎を引き上げて向き合った。よく見ると、骨格が女性のものではないことに気づいた。


「何でも老化に結びつけるみたいねぇ。自分がそうだから?」

「ああぁら、心配してくれますのね。私も、あなたが心配ですわぁ。いつまでも青臭い顔で気取ってらして……子どもの感性で渡っていけるほどこの世界は甘くないでしょうに」

「そんな老婆心を見せてくれるなんて。さすが、長くこの世界を泥臭く生き抜いてきただけあるわねぇ」


 背の高い二人が、バチバチと睨みあってヘンナの頭上で火花を散らす。ヘンナは首をすくめながら助けを求めて周囲を見るが、案内してくれた使用人には扉の横で静かに控えているだけだった。干渉する気はないらしい。

 怒鳴ったり、叫んだりという激しい様子は一切ないまま、二人の会話はどろどろと険悪になっていく。


「というか、何しにきたの? あんたにはアタシの希望を叶える腕はないってことで、話は終わったでしょ」

「お子様って肝心な言葉を抜かして話すから嫌ですわぁ。あなたの希望は、わたくしの美学に反するからお受けできないという話でしたのに」

「細かいところを気にするのねぇ。顔のしわの数まで数えてそうな繊細さ。相容れないってわかってるんなら、また来ても無駄ってこともわかってほしかったわねぇ」

「あら、いやだわ。繊細なわたくしに無駄足を踏ませるおつもりなのね。そもそも、この話はあなたの依頼でなく、後援する貴族様からの依頼という前提を教えてあげなければいけないかしら。それこそ無駄なように思えるのだけれど」


 紫のつめ同士は相容れない。独創を示すというその色をつめに宿す人は芸術家などが多く、自分の美学や価値観、こだわりを持っている人が多い。そうなると、同じ性質同士だからこそ、紫のつめは反発し合うことが多かった。

 ヘンナは、目の前で起きている紫のつめ同士の争いに、どう介入するべきかと下から二人の顔をうかがった。持ってきていた仕事道具の入った肩掛け鞄の紐をぎゅっと握ると、その振動が気になったのか鞄の隙間から小さなロウソンが頭を出した。


「わふっ」

「……今の、何の鳴き声?」


 その鳴き声を聞いて、すっとマゴーの視線が下を向いて、慌ててヘンナが頭を下げる。


「失礼しました。私の使い魔が、その、盛り上がっている会話の様子が気になったようです。私の不手際でお邪魔をしてしまいました」

「ふぅん。どうでもいいけど、あんた誰?」


 じろりと上から見下ろしてくる視線に、ヘンナが怯む前にリトリアがそっと肩を引き寄せた。


「弟子のヘンナですわ。今回、わたくしの代わりにあなたのつめを任せようと思いますの」

「この子が? アタシのつめを?」


 ふうんと興味なさそうにつぶやいたかと思うと、鼻を鳴らしてヘンナではなくまたリトリアに向き合った。はじめましても言わせてもらえない。


「なるほどねぇ、つめ研ぎの魔女も堕ちたみたい。弟子に仕事を押しつけたら、失敗しても言い訳できるものねぇ。ろくにアタシに向かって来れないお嬢ちゃんに、このアタシの晴れ舞台を任せるなんて仕事への誇りもなくなったのねぇ……」

「――侮辱は許しませんわ。相手の技量も思いも経験も知らずに、この子を未熟と判断するなんて、そちらこそずいぶん偉くなられましたのね。わたくしの一番の弟子でしてよ」


 パチンと扇が鋭い音をたてて閉じられた。先ほどまでは、あくまで気の合わない芸術家二人という立ち位置だったのが、リトリアがいつのまにか空気を支配していた。ぐっと言葉に詰まったマゴーはふいと視線をそらして、そのまま部屋の扉へと近づいていく。

 このままでは行ってしまうとヘンナは焦ったが、マゴーは扉横に待機していた使用人に声をかけた。


「お茶の準備をしてちょうだい。……この部屋は作業部屋よ。話すのなら移動するわ」


 そう言うと部屋からすたすたと出ていってしまう。ふうとため息をつくリトリアと一緒にヘンナも部屋を出た。

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