第28話 貴族からの依頼

 ヘンナの母親はまるで物語の聖女のように、誰かが泣いたり、苦しんだり、悩んだりすれば、慈愛の腕で抱き締める。そうすれば誰もが幸せになれると信じていて、その裏など考えない。崇拝されればされるほど、一部からの評判はひどくなった。本当に人の世を知らない妖精のようだった。

 昔のことを思い出したのか、少し興奮したように頬を上気させたリトリアはばさっと扇で顔をあおいだ。


「尊敬するのもよろしいわ。けれど、無理をしているのならおやめなさい。今できているから無理ではないという言葉は聞きたくありませんわ。いつか限界が来るのが無理ですの」

「……師匠は、無理をしたことがありませんか?」

「まぁ、ずるい言い方をしますのね」


 ぱちんと扇が閉じられる。呆れられてしまったかとヘンナが表情をうかがうと、なぜかふふっと笑われる。


「ありますわよ、無理したこと。わたくし、元はただの農家の娘でしたもの。成り上がるために、自分の夢のために、多少の無理の苦味なんて飲み込んでやりましたわ。……ヘンナ、あなたには無理をするだけの理由がおあり?」


 今までであれば、きっと祖母や母親のような立派なつめ研ぎ師になるためと即答していただろう。しかし、今のヘンナの頭の中には、自分の整えたつめで笑ってくれた女の子、マクリンの顔が思い浮かんだ。そして、いままで施術してきた幾人の顔とつめのことも。


「私、もっと師匠みたいに技術を研いて、立派なつめ研ぎ師になりたいです」

「……あら、少しは成長したのかしら」


 結局いつもと同じようなことを言ってしまったヘンナに、リトリアはするっと自分の唇の縁を指でなぞる。その口元は満足そうだった。


「よろしくてよ。多少の無理には目をつぶりましょう。将来、どんなあなたになるのかこの目で見させていただきますわ」

「ありがとうございます、師匠」

「……それはそれとして、少しあなたは人脈を広げたほうがいいわ。より良いつめ研ぎ師になるのなら、なおさらのことね」

「というと、師匠?」


 ゆるりとリトリアは目を細めた。その瞳に魅入られると大抵の人間はぼうっとして動けなくなる。ヘンナはゆっくりと動く唇を見つめた。


「貴族から依頼で、とある芸術家のつめを整えてほしいと頼まれましたの。その案件をあなたにお任せいたしますわ」

「それって、師匠につめ研ぎしてほしいって依頼ですよね?」

「あなたが適任であると判断しましたわ」

「私、貴族の方のつめなんて扱ったことありません」

「貴族でなく、あくまでも貴族が後援している芸術家のつめです。ヘンナ、あなたがなりたい理想のつめ研ぎ師はこのお仕事を断るかしら?」

「……いいえ。断りません」


 そう言われてしまえば、ヘンナは断れなかった。それはリトリアもわかっていたようで、当然というようによろしいと微笑んだ。


「では、準備なさい。ちょうど昼過ぎに会う予定ですの」

「え、い、今からですか? でも、師匠、私その場にふさわしい服なんて……」


 ヘンナが着ているのはいつもの仕事着、動きやすいシンプルなワンピースにエプロンだ。何度も洗濯して少し色も落ちてきて汚れてもいい服、言い換えれば貴族と縁のある人物と会うにはみすぼらしい格好である。

 慌てるヘンナの前に、ぴしゃっと扇を鋭く広げて閉じたリトリアは、すっと店の扉を指した。すると音もなく扉が開く。外には、荷物を抱えているリトリアのハンドマンが立っていた。


「服はこちらで用意してあります。さ、身支度を整えますわよ」

「し、師匠、あまりにも急です……!」

「期間がありましたら、あなたは余計に考え込むでしょう? こういうのは勢いが大事でしてよ」


 勢いに呑まれて、言われるがままに用意された服に着替え、必要最低限のものを準備し、いつの間にかヘンナはリトリア所有の魔導車に乗っていた。もちろんロウソンも小さくなって、今日は鞄の中に入ってもらっている。運転するハンドマンの後ろの席、優雅に座っている師匠の隣でヘンナは久々に乗った車の乗り心地に落ち着かないでいた。

 窓の向こうで緩やかに景色が流れていく。いつもの人が賑わう町の風景から、静かな高級住宅街へ。立派な門構えや庭師が手入れしている庭、通りを歩く使用人も優雅だった。


「あ、フィンガーアップ。噂には聞いていましたが、着ている方を見るのは初めてです」

「わたくしの時代から大分変わりましたわね。若い子たちはどんどん装飾を増やして……要求されることも変わってきて、こちらも大変ですわ」


 窓越しにヘンナが見つけたのは、メイドに日傘を差してもらって歩いていた令嬢だった。顔は傘で隠れてわからなかったが、その手に装着されている白いレースの指ぬき手袋、フィンガーアップが着けられていることはよくわかった。思わずヘンナは身を乗り出してしまう。

 本来手袋というのは、手を傷つけるおそれがあるような職業の人間が身につける、卑しい身分であることの証のようなものだった。しかし、最近の若い貴族の間では指を見せるデザインの華やかな手袋、フィンガーアップが流行っている。貴族で流行ったものは、後々一般市民の間にも広まることが多い。

 窓の外にヘンナが夢中になっている間に、魔導車は緩やかに一つの屋敷の門の前に辿り着く。門の前に立っていた守衛が近づいてきて、運転席のハンドマンと何言か話したかと思うと見上げるような門が開いた。

 敷地の中を魔導車でしばらく走り、ようやく奥の屋敷が現れた。膨らむようなやわらかな曲線の柱が、昼の日差しのような橙色の丸い屋根を支えている。正面玄関の両隣には、荒々しく口を広げるヨウモンリザードの彫刻と優美な指先を天にかざす女神像があった。両開きの扉は美しい色硝子がはめ込まれ、玄関前の白い大理石の床の上に彩り鮮やかな光の影をつくっている。


「さ、降りますわよ」


 ハンドマンに扉を開けられて、颯爽とリトリアは下りていく。ヘンナも急いでその後を追いかけた。

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