第27話 師匠の試験

 扉を開けたのは、良い仕立て屋でつくられたのであろう服を身にまとった背の高い男性だった。ぴしっと背筋が伸びて、足が長く、すれ違うだけで目線を奪われるような美丈夫だった。美しく研かれた陶器のような青いつめを優雅に動かして、彼は自らの主人に恭しく頭を下げた。

 こつんとヒールの音を鳴らし、背の高い彼女と扉をくぐって現れる。それだけで、この場はスポットライトを当てられた舞台だったと思わせる。曇り一つないグラスに注がれた葡萄酒のような気品のあるつめを魅せつつ、ばさっと扇を広げた。


「まったく、あなたって子は相変わらずこんな庶民っぽい店をして。……ああ、あなたはいいですわ。また後で来てちょうだい」

「かしこまりました、マダム」


 指示を出された美丈夫は優雅に頭を下げて、優美な身のこなしで去っていった。

 声もかけられずに閉まった扉を見つめていたヘンナは、店内を険しい顔で見回している自分の師匠のリトリアにぽつりと言った。


「前の方から、また変わりましたね」

「前任は恋人ができたようですから、さっさと交替させましたわ。わたくしのハンドマンは、わたくしの手を恋人よりも丁寧に扱っていただかないと困りますもの」


 ハンドマンというのは、貴族や大金持ちによって雇われる、主人の代わりに手に負担をかけないように世話をする者だ。扉を開けるのは当然として、手が濡れれば拭いてやり、お菓子の包み紙だって開けてやり、顔がかゆければかいてやるなど、その程度は主人によって変わるらしい。美しい手の持ち主でなければなれない職業だった。

 つめ研ぎ師として貴族にも重宝されるリトリアも、外を歩くときは必ずハンドマンをつけていた。彼女は、自分のつめを一つの芸術作品として何よりも愛しているからだ。


「まぁよろしいわ。さぁヘンナ、手をお出しなさい」

「……はい」


 抜き打ちの試験のようなものに、ヘンナは怖々と手を差し出した。すると、ぐっと美しい紫のつめがヘンナの肘あたりを押した。


「自信のない顔をなさらないことよ。いいこと? つめの美しさは振る舞いにも左右されますの。つめ研ぎ師であるからには、堂々と優雅に美しく、周囲が憧れる人間であることを心がけなさい」

「はいっ、師匠」


 何度も言われていたことを注意されて、ヘンナは姿勢を正して真っ直ぐに腕を伸ばした。リトリアはよろしいとうなずいて、自らの手でヘンナの手に触れて、光にかざし、引っくり返したりしながら観察をする。絹のようなすべらかな指がヘンナの手のひらを撫でる。


「あなた、最近夜更かししていますわね。しかも、長時間同じ体勢で作業しましたでしょう」

「そのとおりです……」


 言い当てられて、ひるみそうになりながらもヘンナは正直に答えた。

 少し前にアリスタイオス農園のマクリンを預かり、そのお礼として、農園の羊の毛からできた毛糸玉をたくさんもらったのだ。お金をもらっているからいいと断ったが、娘が大変お世話になったと引いてくれないのでヘンナは仕方なく受け取ったのだった。その毛糸を使って、冬に向けてマフラーか何かつくろうと思い、ヘンナは夜に編物をするようになっていた。


「体の血や魔力の巡りが悪いと、つめの色も良くないということはわかっていますわね」

「はい、気が緩んでいました」

「何もするなとは言いませんわ。でも、お客様はあなたのつめを見るのよ。その意識はありましたの?」

「ちょっと自分の作業に夢中になっていました」


 紫のリップを塗られた唇が笑顔を形づくる。毒々しい色のはずであるのに、リトリアの艶とした口元を見ると瑞々しい葡萄を思わせる。匂いたつような気品と魅力を醸しながら、つつとヘンナの手に触れていた指先が上がっていく。つんと頬をつついたかと思えば、低い声で囁かれる。


「まだまだ未熟ですこと。よろしい、弟子を導くのが師匠の務めですもの。でも、わたくしの教えは一滴も余さず飲み干さなければならなくってよ。おわかりね?」

「師匠の言葉はいつも胸に刻んでいます。……その、実行できているかは、わからないんですけど」

「まったく、取り繕うことのできない子ですわね」


 きゅっとヘンナの鼻が強めにつままれたかと思えば、くるっとターンして施術するための机に向かっていく。タイトなロングドレスのスリットから繰り出される一歩がかつんと響き渡る。

 いつもなら机の近くにいるはずのロウソンは、怯えたように棚の下で小さくなっている。リトリアが害してくる人間でないということは理解しているようだったが、オーラなのか迫力なのか逃げてしまうのだった。

 お客様の椅子に座ったリトリアは、くるりと周囲を見渡し、机に触れ、それからクッションをもふもふとつぶした。


「椅子も机も以前と変わらない古いものね。クッションは、ダンダン羊のものを使っているのは悪くありませんけれど、カバーは安物ね」

「お客様の居心地のいいものをという師匠の言葉どおりに素材はいいものを選びました。けれど、あまり高級なカバーだとお客様が使いづらいかと思ったんです」


 以前に店を訪れたリトリアに、椅子が固すぎて居心地が悪いのではないかと指摘された。ほとんどが祖母の代から受け継いできた物であり、いっそ新しい物に買い替えるかとも考えたが、ヘンナは思い切れずにクッションだけ買ったのだった。

 ふむとうなずいたリトリアは、座りなさいと正面の椅子を指した。緊張しつつヘンナが座ると、紫の唇が開かれる。


「そうね、少々生活に乱れはあるようですけれど、手とつめの手入れは合格よ。相変わらず料理したり手仕事もしているようだから、その分より手入れには気を抜かないこと」

「はい、ありがとうございます」

「それから、お店のことだけれど……相変わらず頑固な子ですこと。これは、もうわたくしとあなたの美意識の違いなので、諦めますけれど。でも、何度見たってため息が出ちゃうわ」


 実際に頬に手を当ててほうっとリトリアはため息をつく。

 お店の調度品が庶民的であること、肝心のサービスの値段も手の届きやすいものであること、基本的に誰でもお客様として受け入れること、祖母の代から続く「ケセラケア」の方針に度々苦言を呈される。リトリアいわく、つめ研ぎとは神聖な行為であり、足を一歩踏み入れるのも少し戸惑うような厳かな気持ちで向き合わなければならない。何もかも一級品を揃え、相手にもそれなりの振る舞いと対価を求め、自分も最も美しいつめと技術を提供するべきだと。それが、リトリアの美学だった。

 しかし美学というばかりでなく、心配しての言葉でもあるとヘンナも理解していた。国家資格を持つつめ研ぎ師は、大抵立派な店構えでそれなりの値段でつめ研ぎを行う。こんなまちの通りにぽつんとあるような店は、大抵資格を持たないもぐりのつめ研ぎ師もどきだ。いかがわしい行為をするのではないかと疑われることもある。

 だから、少しだけ先代のやり方からヘンナが変えたところもあった。


「金額は全体的に少し上げています。代わりに、従来の安い値段でつめの形を整えるだけ、相談に乗るだけのメニューを付け加えています。技術の安売りという点には、少し配慮をしました」

「わたくしが心配しているのがそれだけじゃないことはおわかりね?」

「長く付き合いのある方には理解してもらっていますし、つめ研ぎ師以上のことを求められた場合はきっぱりと断ります。ロウソンも護衛についていますから」

「先々代からの方針であることは理解していますわ。でも、人には向き不向きというものがあります。……あなたは、周りの気持ちを感じとる子でしょう」


 周りからの悪意ある噂を無視できる性質ではないと言われる。無視しているつもりになっても、ヘンナはどうしても自分のしている行為に不安と戸惑いを感じてしまった。


「おばあさまや、お母さん、それから師匠のようにはまだまだなれないようです。自分が正しいと、まだ自信が持てなくて」

「わたくしを尊敬してくれるのは結構ですけれどね。先々代はただ頑固で思い込みが激しくて、先代は……頭の中に少なくとも十の妖精を住まわせている能天気だったわ。真似しなくてよろしくてよ」


 ヘンナの身内だからとリトリアは気を遣うような素振りを見せた後に、最終的によりひどい形で言い表した。ヘンナはただ苦笑するしかなかった。

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