3 夜に輝く紫のつめ

第26話 穏やかな庭

 ヘンナはよくできた子と言われた。おとなしくて、手がかからなくて、ほかの子の面倒を見るやさしい子。

 本人としては、ただ自分のしたいようにしただけだった。誰かが怒ったり、泣いたり、苦しんだり、うつむいたりしていると落ち着かなくなる。できるだけ傷つかないやさしい世界で自分が生きていたいという欲求に従った、と思うだけだった。例えばお菓子が欲しくて泣いている子がいれば一つしかないキャンディだってあげるし、絶対に汚いものに触りたくないと怒る子がいれば代わりに袋を薄暗くて怖いごみ捨て場に捨てに行った。感じることはあるけれど、彼らほど特別欲しいとか嫌なわけでもない。だから、そうしただけだった。

 ヘンナにだけケーキが渡されたことがあった。たしか、女神手祭のパーティに風邪で欠席したから、せめてこれだけでもということで児童学校の先生が渡してくれたのだった。それは、特別に先生が手作りしたケーキだった。

 一人の子がずるいと言った。しょうがないでしょと周りから説得されても、顔を真っ赤にして涙を流してまでずるいと言う。だから、ヘンナはいつものようにケーキをあげようと思った。ケーキは美味しそうだったけれど、あの子ほど熱心に欲しいわけじゃない。

 あげると言おうとしたヘンナを、ずるいと言った子は睨んだ。


「あんたは心がからっぽじゃんっ! 何にもいらないならくれたっていいでしょっ!」


 良いものも、悪いものも、何でもすぐに人の言うとおりにしてしまう。何にも好きじゃないし、嫌いでもない。やさしいわけじゃなくて、心がからっぽなんだと。

 その子は、大好きな先生に叱りつけられてわんわん泣いた。

 傷つけるつもりはなかった、なんてことはないだろう。嫌われているからそう言われた。でも、言ったことは少し当たっているんじゃないかとヘンナは感じた。

 みんなが大声ではしゃぐとき、頭をかきむしって悔しがるとき。不思議だなと思い、少し羨ましくも感じた。そんなに激しく心を動かされたことはない。心がないわけではなく、少し感情が薄いのかもしれない。

 だから、家に帰ったヘンナは、友達のお父さんを抱き締める母を見て、仕方ないと諦めて一人公園で時間をつぶしてしまえたのかもしれない。母が度を越えて博愛精神を持っていたのは知ってるし、その博愛に依存する夫を見た友人の母が憎んでしまうのもわかる気がした。どちらの敵にも味方にもなれない。

 好きと嫌いとヘンナにははっきりと言えなかった。ただ、穏やかであればよかった。





「わふんっ」

「ん、うんっ、なに、ロウソン……おはよう」


 胸が重たいと感じて目を覚ますと、そこにはベッドの上に上ってヘンナの顔をじっと見つめるロウソンがいた。起こされたヘンナは、よしよしと一緒に起き上がった。昨晩作業していたせいか、肩がぱきぱきっと鳴る。軽く首と肩を回して、わふわふと鳴くロウソンの顔を両手で挟んだ。


「今日がそろそろ種がこぼれる日だったっけ?」

「わふ」

「うん。じゃあ、ちょっと採らせてもらうね」


 ロウソンの頭のてっぺんをくるくると撫でて、ふわふわの毛の中の指を入れた。すると、指先に毛とは違うつるっとしたものが引っ掛かり、それをそうっと引っ張り出す。それは緑色の植物の茎のようなものだった。きちんと根を張り、そして先に丸い実をつけている。これが、フラドックスの魔種だった。


「はい、じっとしていてね」


 ぷちっと指で簡単に実は採ることができる。毛と同じ感覚のようで、ロウソンは特に痛みは感じないようだった。魔種を採ってもらっても、ぱたたと前足で布団を叩いて落ち着きがない。種がこぼれる日は元気になるらしく、いつもより飛んだり跳ねたりすることが多かった。

 ベッドから足を下ろしたヘンナは、どたどた騒ぐロウソンに笑った。


「わかったわかった。じゃあ、ご飯の前にちょっと庭に出ようか」

「わふんっ」


 ばっと玄関へ走っていったロウソンに、ヘンナは急いで身支度を整えた。

 居住スペース側の玄関扉を開けて、白い柵で覆った小さな花壇のようなスペースがヘンナたちの庭だった。どこからかロウソンが集めてきた植物の種が植えられ、しかし秩序ある美しい小さな庭ができていた。

 ロウソンは自らの庭を整えるべく、土に鼻を突っ込んだり、いらない葉っぱをわしわしと食べたり、掘り返して植物を植え替えたりしている。それがなんの植物かはよくわからない。この庭に関しては、ヘンナは全てロウソンに任せてしまっている。玄関前にある小さな石の上に座ってその様子を見守った。

 フラドックスの庭の周辺は、植物が育つための魔力が循環するらしく、青々とたくましく、瑞々しい植物が育つらしい。両隣の家も、ロウソンの庭に隣り合う形で家庭菜園用の植木鉢を置いている。ひどく有能な使い魔なのだ。そのため、なけなしの魔力で契約を結んだヘンナはほとんどの魔法を使えなくなった。これはヘンナの魔力がもともと少ないせいだ。

 泥だらけのロウソンがわふんと言いながら、何かをくわえてヘンナの元へやってきた。手を差し出すと、ぽてんと紫がきれいな小さな花を落とす。


「くれるの? じゃあ、あとで押し花にしようか」

「わふわふ」


 また庭の手入れに戻っていくロウソンのお尻を見ながら、ヘンナは手の中の紫の花を見た。紫と言えば、師匠のことを思い出す。


「最近会ってないなぁ……」


 その人のことを思い浮かべた日に会ってしまうという不思議な現象がたまに起こってしまう。

 午前の2人のお客様を対応し終えて一息ついたところ、つめ研ぎ屋「ケセラケア」に突然現れたのだった。




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