第25話 後悔しない未来

 スロープを上っていくと、多くの人々が噴水広場で休憩をしていた。その日射しの中で、相手を待っているマクリンがいた。手には手紙を持っている。ヘンナが近づくと、あれっと思ったよりも明るい顔で迎えられた。


「どうしたんですか、ヘンナさん?」

「……その、約束の時間が過ぎているのに待っているのが見えたから。時間間違えてたのかしら?」

「手紙を確認したら、間違いなく書いてあるんですけどね。ちょっと、心配です」

「そう。マクリン、その、ずっと立っていたら疲れるでしょう。リュシーがカフェで待ってるんだけど、一緒に休むのはどう?」

「……え。ああ、大丈夫ですよ、ヘンナさん」


 泣くような素振りもなく、マクリンは大事そうに手紙を自分の胸の中に抱き締めた。


「ずっと文通していたから、わかるんです。彼、嘘をつくような人じゃない。もしかしたら、道に迷っているか、事故にでも遭ったのかも。それが心配なだけなんです」


 もしも相手がマクリンをからかっただけだったら、なんていうヘンナの心配は要らないようだった。夢を見るような表情で、きっと来るはずの相手を待つマクリンはとても大人びていて、綺麗だった。

 そのとき、ざあっと木の葉が揺れた。強い風が吹いて、揺れるスカートの裾を手で押さえる。


「あっ!」


 強い風にさらわれて、マクリンの手の中にあった手紙が飛んでいく。ヘンナが咄嗟に手を伸ばすが、指先がかすっただけでふわっと高く飛んでいく。


「待ってっ!」


 人を避けながら必死に走って追いかけるマクリンの目の前で、ひらひらと手から逃れるように飛んでいった手紙は、風が止んだかと思うと急降下していく。さあっと地面を滑っていて、溝の隙間からすぽんと中に入ってしまった。か細い悲鳴が上がる。

 雨水などを流すための溝で、誰かが足を踏み外さないように上から石のブロックで塞がれている。その隙間に落ちてきた葉っぱなどが乾燥してへばりついており、端的に言うと手で触れるのをためらうほど汚い。

 しかし、マクリンはためらわなかった。


「お、重いぃぃいっ」


 きっちりと溝にはまっている石のブロックを持ち上げようと、指やつめが汚れるのも厭わずに手を差し込んでいる。しかし、隙間が狭いこともあってかうまく手に力を入れることができずにマクリンは顔を真っ赤にしている。

 膝をついて手を汚そうとしている少女の姿に、行き交う人々は不審そうな顔をする。そんなことも気にすることなく、マクリンは何度も何度もブロックを持ち上げようとした。


「……マクリン」

「あ、ヘンナさん。もうちょっと、たぶんもうちょっとで持ち上がると思うんですけど」

「うん。大丈夫だから、ちょっと下がっていましょうね」


 集まる周囲の視線から隠すように、マクリンの両肩を抱いて少し下がらせる。そして、ヘンナは自分のポケットにそっと囁きかけた。


「ロウソン、お願い」

「わふんっ」


 勇ましく鳴いたロウソンはポケットから飛び下りると、ぐわっと大きく口を開いて石のブロックに噛みついた。そして、ずりずりと引っ張るようにして動かしていく。がこんと完全に外すことに成功した頼れる使い魔の頭をヘンナはいつも以上にぐりぐりと撫でた。


「あ、あったっ!」


 石のブロックが取り除かれた溝を覗き込んで、マクリンは手紙を手に取った。端は少し汚れてしまったようだったが、文字の書いてある部分は特に問題はなさそうだった。

 それを確認して、マクリンはほうっと幸せそうなため息を吐いた。


「よかった」


 わふんとロウソンが誇らしげに鳴いている。たとえ手が汚れたとしても、日の光が照らす彼女の顔はどうしようもなく輝いていた。

 大事に手紙を折り畳んで鞄にしまったマクリンは、立ち上がろうとしてあれっと溝に手を伸ばした。


「まだ何か落ちてました。誰かの落とし物で……あっ」


 つめ先ほどの小さな何かを拾ったマクリンは、ヘンナに落ちていたものを見せようとして声を上げた。そこで、自分の手が汚れていることに気がついたようだった。慌てて距離を取ろうとする手首を、ヘンナはやさしくつかんで引き寄せた。


「近くに噴水があるんだし、ちょっと手を洗いましょう。ロウソン、何度もお願いして悪いんだけど、ブロックを元に戻しておいて。そのままだと危ないから」

「わふん」


 ブロックはロウソンに任せて、ヘンナはマクリンと一緒に噴水に戻った。こちらの様子を見ていた人々は、さっと距離を取っていく。

 そんな周りを気のせず、噴水の水でマクリンの手を洗った。汚れはすぐに洗い流されて、つめに塗ったフェルムネイルにも欠けなどは見られないようだった。


「あの、汚してごめんなさい」


 ぽそぽそと謝るマクリンに、ヘンナは笑った。


「おかしなことを言うのね。もう汚れてなんかいないのに」

「はい……。うちの農園って羊とか牛もいて、動物のお世話をしていたら、汚れに触るのとかあんまり気にならなくなっちゃって」

「だから、怒ってないわ。それにしても、マクリンが拾ったこれって思ったよりも高価そうなものね」


 マクリンの手のついでに洗った落とし物は、星をつかんだ手のような形の小さなバッジだった。しかし、手のかかったデザインや輝き、使われているものの材質からしてなかなか高価なもののようにヘンナには思えた。


「警備隊の詰め所に届けに行ったほうがいいかもしれない」

「あ、じゃあ、私も行きますっ」


 ハンカチで手を拭きながらつぶやくと、なぜかマクリンがついていくと言った。


「え、一緒に?」

「はい。もしかしたら、道に迷ったあの人が行ってるかもしれないし。いなくても、警備隊の人に似たような人を見かけなかったか聞けるじゃないですか」

「……じゃあ、今から行きましょうか」


 恐らくこちらを見ているであろうリュシーに向かって移動するということを合図して、ヘンナは一旦警備隊の詰め所へと向かうことにした。詰め所は幾つかあるが、噴水広場からは大通りのところが一番近い。ロウソンをもう一度ポケットに詰めて、向かうことにした。

 スロープを下りていくと、ざあっと風を切る音が聞こえてくる、大通りを路面魔導列車が走っているからだ。長い坂を上りたくない庶民はあの列車を使う。お金を持っている商人や貴族となると、自分の魔導車を持って移動している。ほかには馬車も通っている。大通りはそれらの乗物が行き交うので、初めての人が歩くには少し難しい場所となっていた。

 怖々としているマクリンに離れないように言って、ヘンナは大通りを渡る。すぐそこに警備隊の詰め所があった。

 そこ待機している警備員に声をかけようとして、誰かが先に話をしていることに気づいた。ひょろっと背が高くて、顔立ちは幼い、夜と朝の間のような薄紫色のつめの男の子だった。大きな旅行鞄と泥だらけのブーツを見れば、町の外から来た人物であるとわかる。


「それで、同じところをぐるぐる回って噴水広場にたどり着けないんですってっ! どうしよう、もう帰っちゃってるかも……」

「だから、さっきも道を教えただろ、坊っちゃん。何でぐるぐる回るかね。とんだ方向オンチだなぁ」

「ついてきてくださぁい。一人じゃたどり着けないんですっ」

「そんなにかよ。巡回行ってるやつが戻ってくるまで、ちょっと待っててくんねーか?」

「はやく、できるだけ早くお願いします……!」


 泣きそうな声の男の子の言葉を聞いて、もしかしてと思ったのはマクリンもだったらしい。スカートの裾を何度も撫で付けて、前髪を何度か触って、それからきれいに塗られた自分のつめをじっと見つめる。


「大丈夫よ、マクリン」


 そっと背中を撫でたヘンナにうなずいて、マクリンは一歩踏み出した。


「あの、アロスくん?」


 名前を呼ばれた男の子が勢いよく振り返って、そこにマクリンを見つけた。顔を見て、リボンを見て、つめを見て、そしてまた顔を見て、そっと口を開いた。


「マクリン、ちゃん?」

「やっぱり、アロス君だっ! もう、やっぱり迷子になってたっ」

「え、ええ、本当にマクリンちゃん? え、どうしよう、俺、めっちゃ汗だくなんだけどっ!」

「どうもしなくていいよ、会えたんだからっ!」


 きゃあきゃあと騒ぐ若い二人に、対応していた警備員は呆れた顔をしている。もう二人はお互いのことしか目に入っていないようだった。

 リュシーに良い報告を持って帰れるなとヘンナが離れたところで見守っていると、不意にマクリンが振り返った。


「ありがとう。ヘンナさんのお陰で、諦めないで会えて、よかったっ!」


 そうやってバタークリームケーキみたいな明黄色のつめを掲げてみせた彼女に、今度はヘンナが泣きそうになる。

 ただ、つめ研ぎ師でよかったと目の前の笑顔を見つめていた。

 

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