第39話 杖をついた男

 静かな廊下の左右を見ても、どちらもほとんど似たような風景だった。ヘンナは自分の記憶と遠くから聞こえる音楽を頼りにホールへ戻ることにした。

 月の美しい夜だった。雲にも何にも遮られることなく、月明かりが伸びてくる。そのとき、ふわりとヘンナの視界の端で何かが動いた。ふわりふわりと、タッセルで留められているはずのカーテンが動いている。開いた窓から風でも吹いているのだろうかと思ったとき、闇の中が一瞬赤く輝いた気がした。


「あの……」


 ヘンナが思わず声を上げると、カーテンの動きが止まった。そして、カーテンの後ろから現れたのは――幼い顔の女の子だった。赤いつめの光る小さな指で頬を拭っている。どうやら、泣いているようだった。

 拍子抜けしたヘンナは、目を合わせながら一歩近づいた。


「こんばんは。こちらのお嬢様かしら?」


 夜のパーティに幼い子どもを連れてくることはない。ということは、この屋敷のお嬢様だろうかと考えながら声をかけると、顔をひきつらせながら女の子はヘンナの横をすり抜けて廊下の向こうへ消えてしまった。

 追いかけるべきか悩んでいるヘンナに、後ろから男の声がかかる。


「あちらは、ここのお嬢さんで間違いないですよ」


 はっと勢いよく振り返ると、そこには杖をついた立っている、大柄の若い紳士がいた。親しげに笑っているのに、まるで仮面のように生気がないように見えて、ヘンナはぞっと背筋を震わせた。月の光の当たり具合のせいかもしれない。


「ああ、突然声をかけて申し訳ない。自分は、ここの屋敷の主人と親しい仲でしてね。マルジエルと申します」


 そう言って、男は腕を持ち上げてヘンナにつめを見せた。冬の朝に凍った湖のような青と、それからもう半分が暖炉にくべる乾いた木の枝のような茶色だった。塗ったわけでもない。珍しい、複色マルチカラーのつめだった。複色のつめは魔力が高く、優秀だと言われている。

 ヘンナは、おそるおそる自分の手を持ち上げた。


「あの、つめ研ぎ師のヘンナです。そのように、丁寧に扱っていただけるような者では……」

「あなたがつめ研ぎ師の方でしたか。お会いできてよかった」


 ヘンナのか細い声を遮るような、張りのある声が廊下に響く。さらにこちらに近づこうとする素振りを見せたマルジエルにヘンナが身構えると、それを察したのか両腕を広げた。


「ああ、初対面のお嬢さんに馴れ馴れしかったですね。ホールに戻られるんでしょう? 一緒に戻りましょう」

「は、い」


 ホールに戻らないとは言えないヘンナは、距離を保ちつつも共に戻るしかなかった。杖をついたマルジエルは、片足を引きずってはいたが動きは無駄なく、きびきびとしていた。走って逃げることはできそうにない。思わず、自分のペンダントを握った。


「それで、先ほどお話ですけれどね、ここのお嬢さんのことです」

「さっきの、赤いつめのお嬢様ですか?」

「さすがつめ研ぎ師の方はよく見ていらっしゃる。そう、あのお嬢さんは赤いつめであるが故に橙を家色にしているここで肩身の狭い思いをしているのです。貴族は、自分の家の色を大事にしますから」

「そうなんですか……」


 まるで他人事のように語るマルジエルが少し気になったが、ヘンナはさっき見かけた女の子が泣いていた理由がわかった気がした。

 顔を強ばらせるヘンナの顔を、マルジエルが覗き込んでくる。


「かわいそうでしょう。……つめ研ぎ師のあなたなら、どうしますか? 例えば赤いつめを橙に塗ってあげるとか」

「それは、国が認めていません。犯罪行為です」

「ああ。そうでしたそうでした」


 まさか、初めて会ったこの人がヘンナの秘密を知っているはずがない。それでも、視界が揺れるかと思うほど心臓が騒ぐ。

 ふと、男の胸元に星をつかんだ手のような形のバッジが光っていることに気づいた。どこかで見た覚えがあったが、ヘンナは思い出せない。

 得体の知れない感覚に喉をしめつけられるような息苦しさを覚えたヘンナは、大きくなってきた楽団の曲にほっと安心する。

 ホールに戻ると、恰幅のいい男性がホールの中央に立っていた。


「ああ、ちょうどいいタイミングに戻ってこれたようですね」


 耳元に囁いてくるマルジエルに、ヘンナは顔がひきつらないように気をつけて笑った。

 どうやら恰幅のいい男性が、この屋敷の主人であるらしかった。


「それでは、ご紹介しましょう。若き天才芸術家、彼がマゴーです」


 拍手とともに、月のように輝く美貌のマゴーが進み出てくる。その横顔を見て、男女問わず誰もがほうっと息をつく。

 優雅に一礼をしたマゴーは、用意された白いキャンパスの前に立って指揮者のように手を上げた。光が反射して、ヘンナの整えたつめが輝く。

 振り下ろした腕に合わせた、楽団が音楽を響かせる。宙を泳ぐように色が伸びて、弾けて、膨らむ。くるりと指を動かすマゴーの指先を、会場全ての目が追った。動かす角度によって、光も形を変え、キャンバスの中にも形を浮かび上がらせる。

 音楽もクライマックスに近づき、大きくマゴーが腕を振り上げたときだった。


「怪盗だぁああああぁぁっ!」


 どこからか叫び声が聞こえて、ざわっとみんなが夢から覚めたようにざわめく。落ち着いてくださいと何度も繰り返す主人の叫びが、さらに混乱を深めていた。噂好きの人々の楽しそうな囁き声が響いてくる。

 もう、マゴーの絵を見る空気ではなかった。

 腕を下ろしてしまったマゴーの後ろ姿に、ヘンナが近づこうとしたときだった。

 ホールから庭へと通じる大きな窓が甲高い音を立てて割れる。悲鳴と混乱と逃げようとする人の流れで、もう収集がつかなくなっていた。

 割れた窓から、黒装束の男が現れる。そのつめ先が赤く光り、誰かが怪盗だと叫んだ。

 ヘンナの視線も、その人物に引き寄せられる。それは、クローとは似ても似つかない、針金のように細い人物だった。幾人かいる赤いつめの仲間なのか。それにしたって違和感がある。


「あのつめ、おかしい……」


 混乱しているせいか誰も気づかないが、その赤は偽物だった。ヘンナがつくるようなものではなく、明らかに不自然な色合いで光っている。思わず呟いた言葉に、隣にいるマルジエルが笑った。


「ああ。やはり、つめ研ぎ師の目は誤魔化せませんか」

「え?」


 青と茶の複色のつめが近づいてきて、そこでヘンナの意識は黒く塗りつぶされた。

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