4 闇に潜む青いつめ
第40話 商売人と怪盗
最初に目に入ったのは知らない天井、柔らかな感触、ぐわんぐわんと痛む頭がヘンナを襲った。首を動かすと、ぼうっと部屋を照らすスタンディングランプがある。その明かりを頼りに部屋を探る。水差しが置かれているサイドチェスト、二脚の椅子と円テーブル、ランプの横にあるクローゼット、カーテンのかかった窓、どこかへ通じる扉が二つ。そして、寝返りを何度も打てそうな広いベッドの上で、ヘンナはさらりと肌触りのいいシーツに包まれている。
自分が、今どうしてここにいるのか理解できない。柔らかなマットの上に手をついて、ヘンナは上体を持ち上げた。せっかくのドレスがぐしゃぐしゃに皺になって、ソマリ花が一つぼたりと落ちた。緑に染めたはずなのに、時間がたったせいか魔力が抜けて白くなっている。
「あれから、3時間はたってる……」
声を漏らしたヘンナの喉はからからに渇いていた。ベッドの横の水差しに手を伸ばして、一度すんと匂いをかいでから水を飲んだ。最後の記憶から、恐らくマルジエルという男に拐われたということはわかる。
「……ロウソン」
ヘンナの使い魔の名前を呼ぶが、ぱちんと何かに弾かれる。使い魔契約をした主人が呼べば召喚できるはずだが、魔法の結界か何かで妨害されているようだった。
ベッドから下りて、ヘンナはカーテンに手を伸ばした。格子のついた窓からは、空にまだ月があるのが見える。格子を握って何度か押したり引いたりしてみたが、窓枠にしっかりとはめられていて動きそうにない。
クローゼットには何があるのかと開いてみたが、中は空っぽで何もない。ハンガーだけが引っ掛かっていた。
あとは二つある扉だった。近いほうの扉にまず近づいて、そっと耳を当ててみる。触れた扉は冷たく、小さく水音がしたような気がした。そっと足で押してみると、抵抗なく扉は開く。中を覗くとバスルームのようだった。洗剤やケアオイルなどの容器が置かれているが、刃物などは置かれていないようだった。
ということは、もう一つの扉が外へとつながっていることになる。裸足でゆっくりと扉に近づこうとしたとき、唐突なノック音とともにガチャッと扉が開いた。
「おはようございます。といっても、まだ夜ですがね」
張り付けた笑顔のマルジエルが入ってきた。ヘンナは逃げるように距離をとったが、ベッドと格子の窓とクローゼットに挟まれて逆に逃げ場がなくなった。
警戒するヘンナに、そんな顔しないでとその気もない軽い言葉がかけられる。
「自分の防御網に反応があったので、あなたが起きたのではと様子を見にきたのですよ。このような手荒な招待になってしまったこと、これでも後悔しているんです」
「招待、ですか」
ヘンナの記憶では、招かれた記憶など一度もない。
そう思っていることを察したように、笑顔のまま困ったものですとマルジエルは首をすくめて杖をつきながら近づいてくる。身構えるヘンナをよそに、部屋に置かれている椅子に腰かけた。
「ずっとお会いしたいと、本当にお願いしてきたのです。しかし、どうもあなたのことを独占したいようでして……。手袋屋からは、何も聞いていませんか?」
「何のことでしょうか。何も、知らないです」
やはり、マルジエルはヘンナが裏でつめを塗っていることに勘づいているようだった。でも、ここで認めるわけにはいかなかった。
知らない振りをするヘンナに、ああと棒読みのため息が溢される。
「おかわいそうに。何も知らされていないなんて。あなたは、本当の自分の価値さえ知らない」
「自分の本当の価値を知っている人が、この世に一体どれくらいいるんですか?」
「それはそうですね。誰も自分の価値がわからないから、必死に足掻いてひたすら価値を高めようとする。……そして、価値を高めるためにはあなたが必要なのです」
青と茶の複色のつめがヘンナを指差した。その指先がまるでナイフでもあるかのように、ヘンナの首筋がぞわりと震える。
マルジエルが歯を見せて笑う。
「あのお屋敷で会ったでしょう。橙の家に赤いつめに生まれてしまったお嬢様。あのような方は、貴族にごまんといる。高貴な方々を味方にすれば、あなたは薄暗い場所に隠れずともよいですし、金も名誉も権力も受け取れます」
「私は、貴族の方を相手にできるほどの技術はまだ身につけていません。師匠と勘違いされていませんか?」
「おや、知らない振りですか? それとも、本当に何も知らされずに飼い殺しにされているでしょうか? 既にあなたは幾人もの貴族のつめも塗っているはずなのに」
グローヴら手袋屋が手配してくれるお客様の素性を、ヘンナは知らない。もしかしたら、壁を一枚隔てた向こうには貴族がいたかもしれない。貧しいものも、富めるものも関係なく、色のない人は扱うという決まりだった。
しかし、マルジエルはそこで予想外のことを告げる。
「あなたの噂を聞いて、色を塗ってもらうためにハンマーで自分のつめを叩き割って白くする人もいるらしいですね」
「どうして……」
そんなことをする人間がいると、ヘンナは考えてもいなかった。白いつめになるということは、通りを堂々と歩くことができなくなり、仕事も制限され、隠れて生きるということと同義だ。わざわざそんなことをするのは、自分という存在がいるせいなのか。
浅くなっていく息を整えようと、ヘンナは深く呼吸をする。それに対して、マルジエルは首を横に振る。
「それほどまでに、貴族は色が重要のようです。家の色になるためなら、白に身を堕とすことも厭わないほどに。……そんな哀れな彼らを、もっと助けたいと思いませんか?」
「あなたは、まるで他人事のような言いぶりです」
「そんなつもりはなかったのですが。自分は商売人として、皆様に寄り添っているつもりです。憂き世を忘れるアンブロシアの蜂蜜も、目を覆うような本性を隠す妖精の羽衣も、悪夢も殺す柔らかな寝心地の
「献身的な商売人の方は、赤いつめの怪盗と縁があるんですか? 貴族のお客様を裏切る行為では?」
「いえいえ。あれこそ、お客様のご希望を叶えるサービスなのです。ええ、あなたは特別ですからお教えしましょうか。情報も商品ですが、これは自分からの友好の証と思ってください」
受け取り拒否をしたかったが、まだ頭のふらつくヘンナが言葉を遮るには遅かった。耳を塞ぐ前に、商売人らしい滑らかなマルジエルの舌が語り出す。
「裏賭博は皆様の空虚な心を満たすためのもの、あくまで娯楽です。しかし、たまに入れ込みすぎて大負けしてしまう方がいるのです。自分たちも商売ですから、お金はきちんといただかなければいけません。けれど、貴族の方々も出し渋るのです。これは、国に納めるべき金なので払えないと。……お金はいただきますが、困っているお客様を見捨てることができません。ですから、一計案じました」
「それが、怪盗?」
聞いてはいけないと思いつつ、ヘンナは聞いてしまった。重たい頭の中では、大雨の日に飛び込んできた赤いつめの人が浮かぶ。
じゃあ、あれもこれも、こうしてヘンナを捕まえるためにしていたことだったのか。
力が抜けそうなヘンナがクローゼットに寄りかかると、これはいけないとマルジエルが対面の椅子を引き寄せる。
「女性を立たせたままなのはやはり失礼でしたね。座ってはいかがですか?」
「……いいえ、立っているほうがいいです」
「そうですか? それでは、ええと、どこまで話したでしょうか。そう、怪盗。この国には、不測の事態が起きた場合、貴族の納めるべき税金を国が待ってくれる制度があるのです。天災や凶暴化した魔物被害、突然の不幸による代替えなどが主ですが……新聞記者にセンセーショナルな記事を出してもらい、賭博好きの憲兵も抱き込んで、貴族の方にも協力していただいて怪盗をつくりあげました」
「全てうそだったんですね」
言葉にしてみて、ヘンナの喉に魚の骨が刺さったような違和感が引っ掛かる。何かが違うと、頭の中で囁いていた。
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