第41話 いまだ明けぬ夜

 黙ってしまったヘンナに、楽しげに話していたマルジエルも低い声を出す。


「そろそろ引く時期に来ていたんです。怪盗被害を受けた貴族が増えすぎて、国も動かざるを得なくなった。最後の怪盗騒ぎとして、パーティにわざと割り込ませ、言い含めておいた貴族の護衛兵と大々的に逃走劇を繰り広げ、追い詰められた怪盗が事故により死亡というのが今晩の筋書きでした」

「パーティ……そうです、マゴー様はどうなったんですか?」


 今のいままで忘れてしまっていた自分を責めつつ、ヘンナは一歩前のめりになって尋ねた。しかし、必死の思いにマルジエルは心底わからないというふうに首をかしげた。青と茶の複色のつめが、遊ぶように杖を手の中で転がしている。


「さて、マゴーという名前の貴族がいたとは記憶していませんが」

「あなたがっ、お披露目を邪魔した芸術家の方のお名前です!」

「ああ。あの客引き人形ですか。招いた客の視線を集めるのに適していると、貴族の方から紹介されたのです。彼には感謝しなければいけませんね。どうやってあなたと巡り会おうかと考えていましたが、こうしていい機会を得られた。それもこれも、今まで積んできた自分の善行のおかげでしょうか」


 名前すらも覚えていない。この日のために、全てを捧げようと必死になっていたマゴーの存在などちらりとも気にかけない。そもそも、芸術家としてではなく、怪盗が侵入しやすくするためのただの舞台装置だと、マルジエルは笑う。

 ぎりっとヘンナの奥歯が嫌な音を立てた。その音が聞こえなかったのか、マルジエルは機嫌良さそうに椅子に背もたれにもたれかかる。


「まさしく幸運でした。失態を犯した部下が、バッジを落としたなんて言ったときはどうしようかと思いましたがね。まさか、警備隊に落とし物として届けられるとは」


 複色のつめが叩くマルジエルの胸元には、星をつかむ手の形のバッジがある。ヘンナは、それが農園からやってきたマクリンが手紙を落としたとき、排水溝から一緒に見つけたものと同じものであることをやっと思い出した。

 ヘンナが良かれと思って何気なく行ったことが、今の最悪な状況へと導いていた。


「何かの罠かと思ってあなたを調べようとしたら、なぜか裏から妨害されました。それがつめ研ぎ師でしょう。ぴんときましてね。……やはり、善いことはしておくものですね」

「善行、なんて。認可されていない裏賭博を開くことも、怪盗として世を騒がせることも、人を拐うような真似も、罪になることです」

「犯罪だからといって、善行ではないと限らないでしょう。あなたが、白いつめに色を塗るように。自分たちは同志になれます」

「私は……」


 そんなことはないと、ヘンナは言い返せなかった。祖母や母がやってきたことを罪だと切り捨てることはできなかったし、ヘンナ自身も困っている人が助かるのならと言い訳しながらつめを塗っていた。それでも、腕を垂れて立っていたマゴーの後ろ姿を思えば、目の前の人に同意するわけにはいかなかった。


「あんな怪盗は、認められません……」


 睨むように見つめながら言い返すヘンナに、マゴーは口元だけ動かして苦笑を浮かべる。


「つめ研ぎ師としては、ああいう偽物のつめは許せませんか? 暗闇でも味方だとわかりやすいように、赤く光る塗料を塗った人工つめを使ったんです。つめらしく見せる意図がなかったので、あんな不格好なものになってしまったんです」

「そんなことを、言っているわけでは……!」


 どんどんと乱暴に扉が叩かれる。笑った顔のままのマルジエルから、ちっという舌打ちの音が聞こえた気がした。


「おい。女と遊んでないで、あんたのやるべき仕事をしろだと」

「自分ばかりで仕事を回しては、組織である意味がないでしょう。気を使ったつもりだったんですが……。それと、お嬢さんが怖がるので、その憲兵らしからぬ態度を改めてください」


 扉を開いたのは、憲兵の服を着た男だった。まさか本物ではないはずと思いつつも、あの大雨の日にヘンナの店を訪ねてきた憲兵たちのものと同じものに思えた。

 そこで、ヘンナの中の違和感が形になっていく。

 じゃあ怪盗であると名乗りつつも、赤い人工のつめではなく、憲兵から追われていたクローは何だったのか。


「仕方ありませんね。すみません、お嬢さん。お話はまた後でゆっくりと」

「あの、クロー……」

「おや、どうかしましたか?」


 部屋を出ようとしたマルジエルが足を止めて振り返る。言葉の続きを待つ男の様子をじっと見つめて、ヘンナは視線を自分がもたれかかっているクローゼットに向けた。


「このクローゼットは、自由に使ってもいいんですか?」

「クローゼットも何も、この部屋はあなたのために用意したものですから。自由に使ってください。部屋の前に人を置いておくので、不足があれば何でも言いつけてくださいね」


 暗に部屋の前に見張りがいると匂わせてから、マルジエルは去っていった。扉が閉まる直前に、憲兵の男がぎらりと目を光らせた気がした。

 再び一人に戻った部屋で、ヘンナはベッドの上に腰掛けた。


「クローさんは、誰なの……?」


 クローゼットというふうに最終的に誤魔化したが、ヘンナがクローという名前を出してもマルジエルには反応がなかった。部下の名前に興味がなかっただけなのか。でも、隣の憲兵の男も知ったような動きはしていなかった。それとも、偽名だったのか。

 正体は依然として不明のまま。ヘンナは息を吐いた、今はこの状況について考えることにした。


「何もしないか、それとも逃げるか……」


 窓には格子がある。バスルームには窓はなかった。ということは、出るには廊下の扉を通らなければいけない。でも、そこには見張りが少なくとも一人いる。使い魔であるロウソンも召喚できないし、部屋に武器になりそうなものはなく、ヘンナ自身に戦う術はない。持っているものといえば――

 ヘンナはもう一度自分の持っているものを確認した。最低限の仕事道具が入ったクラッチバッグはどこにもない。あるのは、身につけていたドレス、ソマリ花、それから……以前にグローヴから護身用にと受け取っていた麻酔薬。

 ヘンナは首から下げていたネックレスを取り外した。シンプルな花の飾りは軽く力を入れると開くことができ、中には小さな丸い実がある。このユストゥスの実をつぶすと麻酔効果のある粉が飛び出す。ただし、これを使えるのせいぜい一人。それに、人に薬をかがせるというのは、そう簡単ではない。見張りが二人以上なら、選択肢は待つしかない。

 立ち上がったヘンナは、廊下につながる扉へと静かに近づいた。そっと近づいて、耳を扉に当てる。夜ということもあってか、廊下は静かだった。人の気配はするような気もしたが、ヘンナは人数まで把握できない。

 意を決して、ヘンナは扉を足でノックした。


「すみません、お願いがあります。聞こえていますか、もしもし」

「……ぎゃんぎゃんわめくな。今何時だと思ってるんだ?」


 扉が開いたかと思えば、不機嫌そうな顔をした、さっき顔を見せた憲兵服の男が一人。ほかには人はいなく、廊下をほかの誰かが通るような気配もない。ちらりと確認したつめは青かった。

 ヘンナが逃げ出さないようにか、憲兵の男は目の前に立ちはだかり、威圧するように上から見下ろしてくる。その腰には、細身の剣がぶら下がっている。剣という形は飾りで、どちらかというと憲兵の剣は魔法の杖としての役割を担っている。それでも、目の前に剣先を突きつけられればどうしようもない。

 ヘンナは逃げる気なんて少しもないと見せるために、両手を挙げながら微笑んでみせた。


「実はずっと何も食べていなくて、お腹が空いてしまったんです。何か用意していただけませんか?」

「お前、自分の立場をわかってるのか?」

「マルジエルさんから、何でも言いつけてと聞いたと思ったんですけど。では、またマルジエルさんが来たときに頼めばいいですか?」


 苛立ったように扉の枠が蹴られる。怯んでしまいそうな自分を抑え込んで、ヘンナは能天気に見えるように笑い続けた。

 男は、諦めたように舌打ちをした。


「ちっ。メイドに頼んでやるから、じっとしてろ。逃げ出そうなんて、考えるなよ」


 鼻先でバンっと扉が閉められる。震える足で数歩下がり、ヘンナはその場に膝から崩れ落ちた。敷かれた絨毯のおかげで足に痛みはないが、心臓は痛いぐらい高鳴っていた。

 グローヴや手袋屋のおじいさまは助けるために動いてくれるだろうけれども、それはきっとマルジエルのほうも見越している。たぶんチャンスは一度だけ。自分で動くには、気力がある今しかない。座っている暇はない。

 思いつき同然の計画を実行するために、自分の頼りない足に力を入れてヘンナは立ち上がる。色の抜けたソマリ花をタオルで包みながらよくもんで、バスルームに置いてあったオイルに浸けておく。それらを準備して、空っぽのクローゼットの中に隠しておく。


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