第42話 昏睡、転倒、逃走

 ほどなくして、ノックされることもなく扉が開かれた。ベッドに座っていたヘンナがパッと立ち上がると、憲兵が開いた扉からワゴンを押したメイドが入ってくる。そのつめの色は薄茶色だった。


「ありがとうございます」


 ヘンナの言葉に返事はせず、メイドは黙々と円テーブルの上にサンドイッチと一口サイズに切られた果物、ティーポットにカップを並べていく。無表情のメイドに近づいて、ヘンナは声をかけ続ける。


「あの、ちょっとお話ししませんか? 一人で部屋にいるとさびしいんです」

「…………」

「ね、一緒にお話ししましょう」

「ちょっと……っ!」


 全てを並べ終えて立ち去ろうとするメイドに、ヘンナは腕を伸ばしてその肩に抱きつく。引き剥がされる直前に、ヘンナはそのうなじからわずかに垂れている髪の一筋を抜いた。

 ヘンナを突き飛ばしたヘンナに見向きもせず、ワゴンを押して足早に去っていく。扉の前で見張っていた憲兵の男が、尻もちをついたヘンナを見て薄笑いを浮かべた。


「そんなに寂しいんなら、俺が一晩遊んでやろうか?」

「……いいえ。今は、お腹が空いているので」

「気が変わったらいつでも言えよ」


 扉がまた勢いよく閉められる。ヘンナが髪を一筋抜いたのは、メイドも憲兵も気づかなかったようだった。

 さっきクローゼットの中に隠した、ソマリ花を浸けたオイルの中にメイドから抜いた一筋の髪を入れて、ティーソーサーの上に添えられていたティースプーンでよくかき混ぜる。ついでに一口サンドイッチを頬張る。ヘンナがお腹が空いているのは、本当だった。

 オイルをかき混ぜているうちに、少しずつ色が薄茶色になっていく。簡易的なものではあるが、これを自分のつめに塗れば色を変えられる。つめをまず見るこの国において、身を隠すのならつめの色を変えるのが一番効果的だった。

 オイルを少しずつつめの上に垂らして、ティースプーンを使って伸ばし、手と足も塗っていく。この部屋にあるもので急拵えでつくったので、暗闇の中でないと誤魔化せない。夜が開けてしまえば色を塗ったとばれてしまうだろう。そもそも他人の色を塗ったままだと、つめが弾け飛んでしまう。夜が明けるまで逃げなければいけない。

 カップにお茶を注いで、ヘンナは一気に空にした。

 あとはいかにもパーティ会場から拐われましたといったドレスをどうにかしないといけない。ヘンナは着ていたものを脱ぎ捨てて、肌着一枚になった。はしたないなんて言ってられない。心の中で謝罪しながら、師匠から折角もらったドレスは小さく丸めてベッドの下に隠す。眠っていたせいで少し乱れていた髪も下ろして、顔が見えづらいようにする。

 最後に、頼りの綱の麻酔薬となるユストゥスの実を手の中に握り込んだ。


「大丈夫。だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょぶ……」


 自分に言い聞かせながら、ヘンナは頭の中でこれから行うべきことを何度も反復する。逃げ出すには、見張り役の憲兵がいる扉から出なければいけない。どうにかして、男の気を反らして昏倒させる。例えば、飛びかかったり、殴りかかったりしても、きっとかわされてうまくいかない。

 ヘンナは、自分のお母さんのことを思い出していた。やさしく抱き締めれば、誰だって心を許してくれるものよといつも微笑んでいた。

 耳の奥から響く自分の心臓の音を聞きながら、ヘンナは扉をノックした。


「す、みません、聞こえますか、もしもし」

「――何度も言われなくても、聞こえてるんだよ。そんなに遊んでほしいのか……?」


 扉を勢いよく開けた憲兵の男は、肌着一枚で立つ姿を見て、続くはずだった言葉を忘れたようだった。

 ヘンナは、無理矢理足を前に進めて口角を上げた。手の中にしっかりとユストゥスの実を握りしめて、もう片方の腕を憲兵のほうへと伸ばす。


「やっぱり、部屋に一人でいるのは耐えられないんです」


 あと少しで憲兵の男に触れるという寸前で、手首が一回り大きな手につかまれた。ぎりっと込められる力強さと痛みにヘンナの顔が歪みそうになる。

 手首を力強く握られたまま、磔にされるように壁にヘンナの手が押し付けられる。憲兵の男の冷たさも感じる半笑いの顔が近づけられた。


「だから、俺に遊んでほしいと? いいだろう。ただしお前が俺に触れることは許さない。……何を考えているかは知らないが、俺は他人にいいようにされるのが大嫌いなんだよっ」


 唸るように低い憲兵の声に凄まれて、ヘンナは喉の奥で悲鳴を押し殺した。乾いてかさかさの親指がヘンナの顎をぐっと固定した。無理矢理上を向かされて、視線を反らすことが許されない。青いつめがちくりと彼女の唇を刺した。

 どうにか逃げようとするヘンナの考えなど、お見通しだったらしい。あと一歩で廊下に出られるのに、動けない。……でも、油断をしているのか、ユストゥスの実を握ったほうの腕は拘束されていないままだった。


「知って、いますか?」

「はぁ?」

「つめは、根元と両端と先端の、4点でしか指にくっついていません。……つまり、私でも簡単に剥ぐことができるんです」


 自分の顔を上から押さえつけてくる男の手をさらりと撫でる。その言葉にこの国の人間として恐怖を覚えたのか、憲兵の男が身体を遠ざけようとした。

 その瞬間、拘束される力が緩んだ。

 自分の息を殺して、ヘンナはユストゥスの実を憲兵の男の鼻先で潰した。


「お前……っ!」

「うぅっ!」


 腹を思い切り蹴られて、ヘンナは壁に叩きつけられた。がつんと頭を打ち付けて、視界がぼやける。同時に、上から男にのしかかられた。成人男性の重さが全身にかかって、息もできなかった。

 しかし、男はぴくりとも動かない。脱力した身体は、ヘンナの上で意識を失っているようだった。ずりずりと這い出るように男の身体の下からヘンナは抜け出した。何度も深呼吸する自分の荒い息がうるさくて、視線を動かすだけで右目の上あたりがぴりぴり痛い。喉の奥から何かがせりあがって来て、じわりと視界が濡れてしまいそうになる。

 でも、そんなことをしている場合ではなかった。


「だれか、誰か来てぇっ! 誰かっ! ……助けてっ!」


 ヘンナがすることは、人を呼ぶために叫ぶことだった。

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