第43話 払われた夜のヴェール
叫び続けるヘンナの声を聞いて、廊下の向こうからばたばたと足音が近づいてくる。そして、倒れている憲兵の男と肌着一枚のヘンナに気づいたらしい。
「おい、どういうことだっ!」
「何があった?」
「ここにいるはずの女はどうした?」
次々と言葉が投げかけられる。
泣いて顔を両手で覆っているという動きを取りながら、ヘンナは薄茶色に塗ったつめを見せつけて震える声を出した。
「わ、私、出した食事を引くために、部屋に来たんです……。そうしたら、突然暴れだして、私のメイド服が奪われて……この方も気絶させられました」
ただ逃げただけでは、きっとすぐに捕まってしまう。だから、逃げているはずのもう一人の架空の自分をつくりだすことにした。
部屋の中を見て回ったらしい一人が、確かにいないと告げる。
「それで、女はどこに逃げたんだ?」
「私も襲われて、はっきりとは……」
前髪を少しだけ持ち上げて、じんじんと痛み続ける額を見せつけた。怪我をしたヘンナの様子を見て、その場に集まってきた男たちは話を信じたらしい。
慌ただしく二手に分かれて、消えた緑のつめのヘンナを探しにいこうとする。そのうちの一人の背中に、ヘンナは声をかけた。
「あのこのままでは動けないので、服をもらいたいんですけど……」
「あ? これでも着てなっ!」
上に着ていたジャケットを投げつけて、男たちはさっさと行ってしまった。ヘンナは昏倒した憲兵の男と二人、その場に取り残される。
貸してもらったぶかぶかのジャケットを羽織って、ヘンナもその場を離れることにした。とりあえず、誰かメイドを探すことにする。メイド服の一つでも借りることができれば、紛れることができる。
ひたひたと素足で廊下を歩く。月明かりが足元の影を伸ばして、ヘンナの前でゆらゆら揺れる。ひどく冷たい夜だった。
廊下の向こうで、ひらりと何かが揺れる。カーテンか、それともメイド服のスカートの端か。
あっと声を上げようとしたヘンナの口を、後ろから伸びてきた手が覆った。驚いて固まるヘンナを、背後の人物はそのまま荷物のように持ち上げて横の部屋の中に引きずり込む。扉の閉まる音でようやく硬直から解けたヘンナは、自分の口元を覆うつめが青いことを確認した。
脳裏に、自分に覆い被さってきた憲兵の男の顔がよぎった。
浮いた足を蹴り上げて、口元の手を何度も叩いて、つめを立てる。なかなか離れないそれに歯を立てようとしたとき、口を押さえていた手が離れ、ヘンナの肩を押して身体をくるりと反転させた。
「――落ち着け、私だっ」
目の前に現れたその顔を見た瞬間、ぼろぼろとヘンナの目からせき止めていたものが零れていく。
月の光が闇を払った先には、クローの顔があった。
「あ、なんで……」
「君の、助けを呼ぶ声が聞こえた。だから――」
「どうして、なんで今ごろっ、うそばっかり……あなた、だれなの、なんでわたしの前にでてきたのっ」
震える声で訴えながら、目の前にいるクローの胸元をヘンナは両手で叩いた。ばすばすと拳が硬い胸板にぶつかる音だけが響く。
しばらくクローはされるがままになっていたが、ヘンナがぐすぐすと鼻を鳴らし始めた頃に手首をつかんでそっと動きを止めた。
「そろそろ止めたほうがいい。君の、手も傷ついてしまう」
さらりと、熱を持つ額のあたりを触れるか触れないかの力で撫でられる。そのクローのつめは、やはり青かった。ヘンナの目から見ても、それは塗ったわけでもない彼自身の色に見える。でも、以前に見た赤いつめだって塗った色ではなかったはずだ。
クローの手を振り払って、ヘンナは距離を取った。
「あなたは、ここの人に雇われている赤いつめのフリをした怪盗なの?」
「……もう、隠しても意味はないか。十分君は巻き込まれてしまった」
肩幅の長さに足を開き、片腕を背中に回し、もう片方の腕を額の前に持ってきてつめを見せるように、クローは敬礼をした。
「私は、騎士団諜報部隊所属の騎士だ。上からの命を受け、世間を賑わす赤いつめの怪盗の正体を暴く任務に就いていた」
「騎士団の諜報……?」
騎士団とは王家のために働く組織であり、憲兵よりもさらに能力に優れた選ばれたものしか所属できないという話はヘンナも聞いたことがあった。しかし、諜報部隊というのは、当たり前かもしれないが初めて聞いた。
ヘンナの混乱を察して、クローは青いつめを目の前に差し出した。
「青いつめも、私の色だ。そして、赤いつめも。諜報部隊は、いろんな場所に潜入するために自分の持っているつめの色の比重を変える部外秘の技術がある。私の場合は赤と青……になるな」
「……なら、私がつめを塗らなくてもよかったんじゃないですか?」
「自由自在というわけではない。一度変えると、自然に戻るまでどうにもできない。気になるなら、触れて確かめてくれてもいい」
「じゃあ、クローさんや諜報部隊の人は、
おそるおそるその手に触れて、ヘンナはつめの形や色を確かめる。そんな技術があるというのはヘンナも初耳だった。でも、そこにはうそがないように思えた。
以前にヘンナが茶色の人工つめを用意した大男についても諜報部隊で、赤と茶の複色のつめの持ち主だったのかもしれない。
ヘンナの言葉にクローは頷いた。
「そうなる。君に初めて会ったときは、赤いつめの怪盗に扮して、怪しい貴族の屋敷に潜入していた。……まさか、同じ時刻に本物の怪盗と出くわして、憲兵にまで追い回されるとは思わなかった」
「そう、だったんですか」
安心したのと同時に、今までのことが全て、クローと名乗った名前すらも本当ではなかったのかもしれないと、ヘンナの頭は無意識に下を向いた。
「ヘンナさん」
床に膝をついたクローが、うつむくヘンナの顔を見上げた。そして、目の前に腕を差し出される。
「突然のことで混乱して、私のことも信じられないかもしれない。立場上、君に多くのことを話せなかったし、騙していた。……でも、私が君を安全な場所まで必ず送り届ける。だから、どうかそれまでの間だけでも信じてほしい」
遠くから騒ぐ声が聞こえ、複数の足音がする。きっと、逃げ出したヘンナが探されている。目の前のクローも焦ったように扉のほうへと視線を向けて、もう一度ヘンナの名前を呼んだ。
「――わかりました。信じます」
何かを信じるのなら、目の前の人がよかった。
ヘンナは、差し出された腕に手をかけた。
「……ありがとう。こっちだ、ここから移動しよう」
そう言って、クローはヘンナを連れて部屋にある暖炉に近づいた。使用する季節ではなく、使われていない部屋ということもあり、埃っぽい。
屈んで暖炉の中を手で探っていたクローは、がこんと何かを動かした。それと同時に、暖炉の下部分が傾いて、穴のようなものができた。ほとんど垂直のような滑り台のようなものが先が見えない底に続いている。
「よかった、やっぱり非常脱出口があったな。ここから地下まで一気にいける。……私に捕まってくれ」
「はい」
穴に両足を入れたクローが、ヘンナに向かって手を広げてくる。その腕の中に飛び込むようにして、ヘンナは両腕でクローの首に抱きついた。わかってはいても顔が近く、首を引っ込めるように胸のほうに視線を固定させた。少しだけ汗の匂いがする。ヘンナの腰が力強い手に支えられた。
「じゃあ、行こう。しっかりつかまっていてくれ」
その合図とともに、ヘンナはクローとともにぱっと底へ底へと落ちていった。
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