第44話 ガラスの靴では怪我をする

 鋭い風が頬を打って、ぎゅっとヘンナは目蓋を閉じた。支えてくれる腕が身体を引き寄せてくる。がっがっと、何度か壁に擦ったブーツが勢いを殺そうとする音が聞こえる。

 ふっと身体の上下左右がわからなくなるような感覚とともに、熱いぐらいの体温がヘンナの頭を抱えたかと思うと、どすんと何かの中に落ちた。

 ヘンナが目を開けると、視界は真っ白だった。


「え、シーツ……?」

「ここは、地下のランドリールームだな」


 ランドリールームには、壁にぽつんとぶら下げられているランプだけが光っている。シーツばかりが無造作に積まれた大型のランドリーバスケットの中をかき分けて、二人は床に足を下ろした。何も履いていないヘンナの足が石造りの床の冷たさに震える。

 腕を貸していたクローはヘンナが寒さに震えたことに気づき、洗濯をする下働きの者たちが使うであろう木製の丸椅子を引っ張ってくる。


「ここに座っていてくれ。靴か何か……ないのなら、シーツを千切って足に巻いてしまおう」

「あの、私我慢できます」

「たしかに急ぐべきだが、その足では逆に急いで動けないだろう。これは逃げるために必要なことだ」


 そう言ってクローはヘンナを椅子に座らせて、ランドリーバスケットの中からシーツを見繕い始める。

 申し訳なく思いながらヘンナが薄暗い地下のランドリールームを見回すと、違うバスケットの中にメイド服らしいものが投げ込まれているのを発見した。手にとってみると、ヘンナより少し大きいぐらいで着れないことはない。

 ヘンナは羽織っていたジャケットを脱いで、急いで黒のワンピースに白いエプロンに着替えた。きゅっとエプロンのひもを結んだところで、シーツを細くナイフで千切ったクローが戻ってくる。


「メイド服に着替えたのか。たしかに、少しでもまぎれたほうがいいな」

「はい。……あの、布は自分で巻きますよ」

「君が腰を屈めて巻くよりも、私がやったほうが早い。すぐに終わらせるから」

「えっ、わかりました」


 そんな場合ではないとわかってはいても、普段他人に見せないつめを目の前の出すことにヘンナはきゅっと足の指を丸めた。クローは、全く意識していないのか黙って丁寧に足に布を巻いていく。その手がやけに熱く感じた。

 ヘンナの足を見つめるクローのつむじを見ながら、ぽつりと尋ねた。


「クローさんが騎士団ということは、私はいずれ捕まるんですか?」

「それは、なぜ? 君は誘拐された被害者だ」

「その誘拐された理由は、私がつめを塗るから――罪を犯している人間だからです。あなたが取り締まるべき人間でしょう」


 いつかこんな日が来るのではないかとヘンナは思っていた。それが良いとも嫌とも、今ははっきり考えられない。

 足に布を巻いていたクローは、手を止めて顔を上げた。うつむいていたヘンナと真っ直ぐに視線がぶつかる。


「私の言った、安全な場所まで送り届けるというのは、君がこれからも過ごす穏やかで平和な日々のことも含めてのことだ。何も心配しなくていい」

「でも、それだとクローさんの立場は、どうなるんですか?」

「そうやって考える君だから、私はここにいるんだろうな。……さて、ちょっと立ってみてくれ」


 立ち上がったクローが、足踏みをしてみるように指示してきた。うまく誤魔化されたような気がしつつも、ヘンナはシーツの巻かれた足を動かした。少しきついぐらいに巻かれているが、シーツがずれることもなく、走って動くこともできそうだった。

 問題がなさそうなことを確認したクローは、壁にかかっていたランプを取ってヘンナに手渡した。


「いざというときのために両手を空けておきたいから、明かりは君が持っていてくれ。じゃあ行こう」


 先を行くクローの後ろを、両手でランプを抱えたヘンナがついていく。地下のランドリーは薄暗く湿っぽい。耳をすませながら、二人は地上への階段を上っていった。

 遅い時間帯ということもあり、物音はしない。階段を上りきると、すぐそこは建物と園芸樹木に囲まれた広場に出る。物干し竿や洗濯糸などが近くにあるのを見る限り、ここで洗濯物を干すらしい。

 壁に沿うようにして移動していく。ヘンナの足元で、布越しに芝生がくすぐってくる。さくさくと踏まれる草の音さえ嫌に響いて聞こえた。遠くで人の声が響いている。

 人の気配が少ないほうへ少ないほうへと移動していき、いつの間にか広い庭へと出ていた。背丈を越える整えられた木々や植え込み、そして彫像などに囲まれていて月の光が遮られている。ヘンナが照らすランプでは明かりが弱く視界は悪かったが、クローは慣れた足どりで進んでいく。遅れてしまいそうなヘンナが必死になっていると、急に肘をつかまれて足を止められた。


「ヘンナさん、万が一があれば、ここから真っ直ぐに走って……」

「――勝手に人の庭に入るのは、人間ではなくしつけのなっていない犬ですよ」


 暗かったはずの庭がぱっと明るくなる。ヘンナは腕を引かれて、クローと一緒に植え込みの後ろの影に隠れた。

 明るくなった庭には、長い影が伸びている。かつんと杖を鳴らして、微笑みを口にくっつけたマルジエルが立っていた。その背後にはぼうっと青い光を放つ、人の頭ほどの大きさの氷の結晶が従っている。ほかに部下などは連れてはいないようだった。隠れているこちらに向けて、警告のようなものを投げかけてくる。


「人としての礼儀が備わっているのなら、きちんと挨拶をして正面からやってくるでしょうに。今出てくるのなら、まだ客として受け入れましょう」


 クローは隠れながら横目で相手の動きを観察しつつ、しっとヘンナに向けて静かにするようにジェスチャーする。ヘンナはこくこくとうなずきながら、手元のランプの明かりを消した。

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