第45話 命懸けの戯れ
しんと空気が静まり返る。お互いに、相手の動きを待っていた。
ふうっとマルジエルがため息をつく。
「残念です。……やはり、国に首輪をつけられた者は犬の意識のほうが強いのでしょうか。人としての尊厳を投げ捨てるなんてかわいそうに。自分には考えらない」
マルジエルの口ぶりからして、クローが国に所属する者であるということはばれているようだった。クローの腕の中に囲われながら、ヘンナはごくんと唾を飲み込んだ。
冷たい風が吹いたかと思うと、抱えるようにしてクローがヘンナとともに移動する。隠れていた植え込みの部分がばさっと音を立てて切り飛ばされ、さっきまで二人がいた地面には爪痕のような跡ができていた。
杖を振りかざしたマルジエルがもう一度声を上げる。
「犬の知能に合わせてかくれんぼをするほど暇ではないんです。今のが警告だということぐらいは、あなたにもわかるでしょう?」
二人が移動した先の飾られていた彫像の後ろに向かって声がかけられる。ヘンナとクローがどこに隠れているのか、完璧に理解しているようだった。
「……魔力で位置を感知する、余程の手練れか。少し離れるが、合図をしたら移動してくれ。走れと言ったら走るんだ」
縮こまっていたヘンナの背中を勇気づけるように手をそっと添えてから、クローは一人で中腰のままさっと物陰を移動していく。彫像の後ろに残されたヘンナが様子をうかがっていると、マルジエルがクローの移動した方向へと向き直った。
ヘンナが別の場所にいることには気づいていないように見える。魔力がほとんどない相手の場所はよくわかっていないのか。遠くで、クローが向こうへ移動しろというジェスチャーを送ってきた。
「悪あがきですか? この防御膜の内側では、自分が認めたもの以外魔法はまともに使えないはずですよ。あなたは今まともにお手もおすわりも駄犬状態です」
ゆったりと余裕をもってクローのほうに向かって話しかけるマルジエルを見ながら、ヘンナはできるだけ音を立てないように反対側へと移動する。
マルジエルと距離をとると同時に、クローとどんどん離れていくことに不安を覚えて、ヘンナの足がもつれそうになる。倒れるように、ヘンナは植え込みの影にしゃがみこんだ。影から少しだけ頭を出すと、マルジエルがまた杖を振りかざしているところだった。
「せめて犬らしく鳴いてみてはどうです?」
はっと思わず鋭く息を吸ってしまって、ヘンナが自分の口に手を当てたときだった。背中を向けていたはずのマルジエルが、杖を大きく振る力を利用してくるりとヘンナのほうを向いた。はっきりとこちらを認識して見ている。
「くそっ、走れっ……!」
大声で指示されて、ヘンナは弾かれたように立ち上がって逃げようとする。しかし、動こうとする前に足首が痛むほど冷たくなり、地面に倒れ込んだ。振り返ると、ヘンナの片足が地面から生えた氷の中に捕まっていた。何度も足を引き抜こうと力を入れるが、抜けないどころか皮膚がびりびりとひきつれて痛んだ。
地面に手をついたヘンナに、マルジエルが杖をつきながら優雅に近づいてくる。はっと見上げた顔は、月を逆光にして表情がわからなかった。
「駄目ですよ、お嬢さん。犬と駆け回るのは少女のうちに卒業していただかなくては」
「……お転婆でごめんなさい。私は、あなたの目にかなうような振る舞いはできません」
「構いませんよ。教育するのは私の
マルジエルが言い切る前に、赤く燃える火の玉が背後から撃たれる。しかし、それは杖の一振りで青く輝く氷に呑み込まれて消えてしまった。
もはや一歩も動くこともできないヘンナに背中を向けて、マルジエルは自分に攻撃してきた男と相対した。
「犬の浅知恵ですね、脳みそが小さいと大変でしょう。自分が、お嬢さんの微弱な魔力を辿れないとでも? そういう素振りは見せましたが、こうもあっさりとかかってくれると拍子抜けしますね」
「……随分と優秀な頭を持ってるようで。そんなに重い頭なら、地面に下ろしてみたらどうだ? 楽になるぞ」
「おや。人間の言葉を話せるとは、犬にしては賢いようですね」
隠れていた物陰から出てきたクローは、ナイフを片手に構えて、いつでも動き出せるように重心を低くしている。一方のマルジエルは、杖に体重をかけて悠然と相手が動くのを待っている。こういった場面に慣れていないヘンナの目からしても、どちらが有利で不利なのかはわかるような気がした。
クローはナイフを構えたまま動こうとしない。下手に動くことができないようだった。待ちくたびれたように、マルジエルが浮かぶ月の傾きを見上げた。
「自分も暇ではないんです。今夜はいろいろとやることが多いので忙しく……君一人を殺すのに時間をかけていられない」
その言葉を合図にしたように、クローが一回転するように地面に転がった。その背後で真っ二つにされた彫像が砕け散る。
マルジエルが腕を振るごとにばきばきと音を立てて周りが荒れて壊れていき、身を低くしてクローは逃げるしかない。その様子を見て、マルジエルはくっくっと喉を鳴らして笑う。
「地面を這いずって逃げる姿は、まさに犬ですね。そのように泥で手を汚しては、お嬢さんをエスコートするのも難しいでしょう。……おっと」
口元を手で隠しても見えてしまうにやけ面に、ひゅっと風を切ってナイフが投げつけられる。しかし、それは指先一本で宙にぴたりと止められる。
わざわざナイフに近づいたマルジエルは、頭を動かしてその刃先をじっくりと観察して大きくうなずく。
「獣らしい野蛮な攻撃の仕方ですね。このような安物を使わざるをえないとは。寝返るのなら、施してあげても構いませんが」
ひゅっと音を立ててさらにナイフが飛んでくる。また一本ナイフがぴたっと宙で止まったが、不意に違う角度から矢のように飛んできたナイフがマルジエルの頬をかすめる。つうっと一筋の血が流れて、青と茶の復色のつめがぬぐい去った。
「……なるほど。ナイフの刃を黒く塗って視覚的にわかりづらくするという、原始的で姑息なやり方ですね」
「生憎、犬に人の道理なんてわからないんだ。粗野だろうが、姑息だろうが、汚かろうが、相手を仕留めさえできればどうだっていい」
「人に害なす獣の末路は、駆除ですよ。来世は人に生まれてこれるよう祈っておきましょう」
ぱきんっと氷の塊がクローの前で弾けた。素早い身のこなしで身体をのけぞらせて回避したようだったが、砕けた氷の
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