第46話 獣の教育

 こひっと不気味な音を鳴らしてマルジエルが笑った。


「人から流れる血の臭いはひどく不快で、私は好きですよ。所詮は人の形をした廃棄物だとよくわかる」

「そんなに、鼻がいいならっ、あんたも犬に向いてるんじゃないのかっ……!」


 赤い火の玉をクローが撃ち込むが、杖がさっとふり払われると、がきんっという音ともに打ち落とされる。地面には、ぷすぷすと赤い残り火をちらつかせるナイフが転がっている。


「魔力の火の中にナイフを隠しても、同じような手はもう自分には通じませんよ」


 マルジエルが手を広げると、クローが先ほどから撃っている火よりも何倍も大きな砲弾のような青い氷がずらっと宙に行儀よく整列する。距離のあるヘンナの吐く息まで白くなるような、肌が痛いと感じるほどの冷気だった。

 ヘンナは、必死で氷の中に捕まっている片足を引き抜こうと引っ張る。せめて、自分がこの場にいなければクローだって隙を見て逃げられはずだった。ああやって不利な戦いを続けているのは、ヘンナのためでしかない。

 魔法でつくられた氷は溶けることもなく、じわじわと体温を奪っていく。片足はしびれて感覚がなくなってきている。ヘンナは足を引っ張るのをやめて、手で氷を叩いた。しかし何度やっても、痛みと赤くなった手しか残らなかった。氷の根本に指をつきたてて掘り起こそうともしたが、土がつめに入ってつめ研ぎ師にあるまじきぼろぼろの手になっただけだった。

 振り返ると氷の刃が降り注いで、高く伸びていた木も、飾られていた彫像も、整えられていた芝生も抉り、削って、砕かれて、庭はすっかり荒れ果てていた。冷えて白く霞む空気の奥で、クローらしき人影が動いているのがかろうじてわかる。しかし、これだけの派手に暴れているのなら屋敷のほうからマルジエルの応援がくるのも時間の問題だろう。残された時間がすり減らされていく。

 ヘンナは、自分の手元に転がっているランプを見下ろした。倒れたときに思い切り地面に叩きつけてしまい、側面にヒビが入っている。ヘンナは手を伸ばしてランプをたぐりよせて、つまみを回した。ランプとしての機能は壊れておらず、ぽっと小さな炎がつく。


「いま、今、私がすべきことは……」


 ヘンナは自分の手に口を寄せて、がりがりとつめを噛んだ。土の味がする。ふうっと息を吹きかけて、歯で削ったつめをランプの中の小さな火へ交ぜ合わせる。ぱちぱちと音を立てたかと思うと、操る指を動きに合わせてぽっと種のような火が揺れ動いた。

 使い魔契約によりヘンナの持つ魔力はほとんどないに等しいが、魔力を動かす技術自体は仕事で使うこともあり慣れている。魔力そのものでもあるつめを削れば、このぐらいの小さな火なら動かすこともできる。でも、氷を溶かすには火は小さすぎた。

 ヘンナは、自由なほうの足に巻かれている布をほどいた。そして、布を火に近づけて火を燃え広がらせる。大きくなっていく火に手をかざして、指先に力を込めて動かした。

 火をまとった蛇のようなそれは、ゆらゆらと頼りなく揺れながらヘンナの足を捕らえている氷に巻き付く。しゅううっと蒸気を上げて氷が少しずつ溶けていくが、それよりも火の勢いが弱まっていくほうが早い。


「お願い。あともうちょっとだから……」


 ぐいぐいと足を引っ張ると、少しずつではあるが抜けてきているような感覚があった。操っていた火が消えるのと同時にぐっと力を込めた足が、薄くなった氷を割って無事に逃げ出すことに成功した。

 ほとんど足に感覚がないことを無視して、ヘンナは両手で地面に手をついて立ち上がり――


「本当にお転婆なお嬢さんですね。それもかわいらしいですが、これからは貴族を相手にしなければいけませんから。安心してください、今から自分がレディとしての振る舞いを教えましょう」


 目の前にはマルジエルが立っていた。逃げようとはするものの、ヘンナの足はしびれてうまく動いてくれない。ぐいっと囲うように肩をつかまれたかと思うと、杖の持ち手部分を首にぐいっと突きつけられた。ぐっと喉が圧迫されて息がしづらくなる。


「あまりにも犬が生き汚いもので、時間をかけるのも馬鹿らしくなりましたのでね。申し訳ありませんが、これが一番効率がいいので協力してください」

「あっ、なに、を……」

「――このお嬢さんを傷つけられたくなければ、今すぐ出てきてください」


 もうもうと冷たい空気の靄がかかった庭に、マルジエルの声が響いた。ヘンナは必死に抵抗しようとするが、マルジエルの腕が上半身を絞めるように回されているために首を少し動かすのだけで精一杯だった。持ち上げるように立たされているため、ヘンナの足はほとんど浮くようなつま先立ちになっている。立つことすらうまくできず、遠のいてしまいそうな意識を何とか繋ぎ止めている状態だった。

 靄の向こうに隠れていたクローが、低く落ち着かせた声で返事をする。


「あんたが、彼女を必要だと拐ったんだろう。それを、わざわざ犬一匹のために傷つけるとでも」

「殺しはしませんがね。これもレディ教育の一つです。教えには、ある程度の恐怖による抑止というものが必要でしょう」

「……言うことを聞いてやる理由がどこにある?」

「出てこなくても構いませんよ。そうすれば、お嬢さんは自分の愚かさと獣の不義理さを学ぶでしょう。もう二度と戯れを起こさずに済みます」


 首に押し付けられていた杖が、さらにぐっと力を込められる。ひゅっとヘンナの喉から空気が抜けていった。マルジエルが氷をまとった指先で白くなった頬を撫でると、ちりちりと痛みとともに温かい血が流れた。

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