第47話 声はいつも届かない
どこかへ隠れているはずのクローへ向けて、ヘンナは音にならない声を届けるためにはくりと口を動かした。
どうか、もう逃げてほしい。
「――もういい、やめろっ!」
ヘンナの声は音にならない。背後でくひっとマルジエルが笑っていた。
「他人の情というのは大好きですよ。こうやって自分の利益になることもありますし、使いようによっては金にもなります」
「……品性は金で買えないらしいが」
「おや。自分には関係ないですが、君には残念な話でしたね」
おとなしく出てきたクローが真正面に立ち、手に持っていたナイフを地面に投げ捨てた。視線を刃の切っ先のように鋭くして、ヘンナを捕まえているマルジエルを睨む。
「目的は達成しただろう。さっさと手を離したらどうだ」
「急に牙をむかれて困りますからね。君を殺したら、きちんとお嬢さんを介抱しますよ」
きりきりと耳障りな音を立てながら、クローの頭上に大きな氷の杭がつくられていく。ヘンナがぱたぱたと足を揺らすが、抵抗にすらならなかった。
見たくないと目を閉じてしまえば楽だったが、反らすことはできなかった。マルジエルの氷の手がヘンナのあごを撫でて、頭をクローのほうへと向けさせる。
「哀れな人間を見ることで、ああはなりたくない、あれよりも上に立ちたいと人は自覚と成長を覚えます。お嬢さんもよく学んでおきなさい」
「あ、くっ……!」
わざわざヘンナの目の前に青と茶のつめを見せつけながら、その指先が氷の杭をクローの脳天に突き刺させようとしたときだった。
ずどんっ!
ぐらっと視界が揺れた、のではなくそれは地面ごと揺れたようだった。ちっとヘンナの頭上で舌打ちが鳴らされる。
「まさか、夜も明けないうちに襲撃してくるとは……!」
マルジエルの意識が屋敷のほうへと向かう。そういえば、これだけの大立ち回りをしているというのに誰もこの場へ応援に来ない。
その一瞬の隙を見逃さなかった。
ヘンナの片方の足に巻かれたままのシーツがひとりでにしゅるりと解ける。事前にクローの魔力の印がつけられたシーツはふわりと広がり、そのまま大口を開けるようにしてマルジエルの頭をぎゅっと包み込んだ。突然視界を覆った正体不明の何かに、マルジエルは咄嗟に両手を使って引き剥がそうとする。
拘束を外されて、そのまま地面に倒れ込みそうになるヘンナの身体を温かい腕が抱きとめる。
「すまない。……時間稼ぎのために、君を必要以上に傷つけてしまった」
「あ……」
息を吸うのに精一杯で、ヘンナはクローが何を言ったのか聞き取ることができなかった。ただ自分を責めるような苦しそうな声色であることだけがわかって、その腕の中で小さく首を横に振る。気が抜けて意識が飛びそうになるが、その胸にしがみついて何とか立っていた。
今にもかくりと折れそうな足に腕が回されて、ヘンナの身体が浮く。クローに抱き上げられたということを理解するのにさえ、ちょっとの時間が必要だった。
「――ふざけた真似はここまでにしていただきたい。雑魚に手を煩わされるのが、一番大嫌いなんですよっ!」
顔に張りついていたシーツをびりびりに引き裂いたマルジエルが、飢えた獣のように歯を剥き出しにして顔を歪める。ヘンナを抱えたまま距離を取ったクローは、ふんと鼻を鳴らしてそのまま背を向けて走り出す。
「今さら逃げられるとでもっ!」
「……むしろ、逃げてやってることに感謝してほしいぐらいだが?」
逃げようとするクローたちの周りをぐるりとドームのように氷の杭が囲う。しかし、クローが瞬き一つをする間にぼぼぼっと炎の渦がぐるりととぐろを巻き、一瞬で全ての氷を蒸発させてしまった。
「お前の防御網は既に破られた。逃げる算段でもしたほうがいいんじゃないか。――逃げられるわけがないけどなっ」
「こ、の……っ、このマルジエルに、駄犬ごときが情けをかけようなどとっ、無礼なっ!」
「卑劣な犯罪者がわめくな、反吐が出るっ」
自分に有利な状況を引っくり返されたことが受け入れられないのか、マルジエルが唾を飛ばして喚きながら着ている服の内側から何かを取り出そうとする。しかし、その奥の手が実行される前に、すこんっという固い音ともに頭をのけぞらせてそのままマルジエルは後ろへひっくり返った。
反撃しようと睨んでいたクローは、自分の後ろから攻撃をした相手を振り返った。そこには、黒装束を身にまとったヘンナの幼馴染みグローヴが立っている。彼は、敵か味方かクローを判別しかねていた。片腕を背中に隠している警戒の仕草を見て、ヘンナは力を振り絞って声をかけた。
「グロー、ヴ、この人は、だいじょ、ぶ、だから……」
「無理しなくていい。……手袋屋のグローヴだな」
必死に伝えようとするヘンナをクローが止める。振動を与えないように静かな動きで近づいたかと思うと、いまだ少し警戒をしている相手に向かってヘンナを差し出した。
グローヴは一瞬逡巡したが、もう腕を持ち上げることもできないほど弱っているヘンナを見て腕を伸ばした。そっと自分を守っていたぬくもりとヘンナは引き離される。
どうか、いかないでほしい。
「大丈夫だ。君を怖がらせるようなものはみんな――もう近づかない」
母親にすら言えなかったヘンナの言葉は、やはり届くことはなかった。遠ざかっていく人を引き止めようとしても、身体が追いつかない。
ぽつりと雨粒のような涙がこぼれて、ヘンナは意識を失った。
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