5 君の色に染まる花

第48話 似た者同士の内緒話

 つめを塗る。

 悪夢を見て目覚めてしまった真夜中に、心の拠り所となるランプの明かりのような赤。隙間から出された骨が浮いている指のつめにヘンナは色を灯した。

 つめの形も整えられており、表面もつるりと研かれて、筋も出ていない。色が白いつめは他人に手入れしてもらうのが難しく、自身も見たくないものとして手入れをおざなりにする人間が多いため、白く整ったつめは珍しかった。指先もふわふわと肌が柔らかで、固さが一つもない咲いたばかりの花弁のようだった。

 もしかしたら、よほど裕福な家の生まれなのかもしれない。家で専属のつめ研ぎ師を抱えて、白いつめであることも金を払って黙っていてもらう。あるいは貴族という可能性もある。

 拐われたときのことをふと思い出した。ヘンナのつめは、自分で噛んだところを無理に整えたせいでひどく短くなってしまった。ほとんどわからないほどに治ってはきているものの、他人の色を塗ったせいで先端にも少し欠けができた。身体的にはほかに問題はなかったが、つめ研ぎ師としてはふさわしくない手となってしまったため、治るまで自分の店は休業することになった。

 数日前にやっと顔を合わせることができたリトリアに、こんなつめではもう弟子と名乗れないかもしれないとヘンナは謝った。すると、凛とした顔をきゅっとしかめてぽろっと涙をこぼしながら、一生わたくしの弟子でいなさいと叱られてしまった。叱られるよりも、あの完璧な師匠を泣かせてしまうほうがつらいことをヘンナは初めて知ってしまった。

 そのときに師匠に整えてもらったつめで、ヘンナは目の前のつめの色をむらなく丁寧に塗った。

 こんこんと終わった合図に足で壁を蹴ると、するりと優雅に見える仕草で手は引っ込んでいく。それを見届けると、ヘンナの足元でわふんとロウソンが鳴いた。


「今日もありがとう、ロウソン」


 ふわふわの頭を撫でてやると、ふんふんと鼻を鳴らしながらやる気に満ちた様子で敵なんていないはずの部屋をぐるぐると警戒している。誘拐されたあの日を境に、ロウソンも少し過保護になったように思う。

 そして、もう一人過保護になった人物が声をかけてくる。


「これで、今日は終わりだ。戻るか」


 狭い部屋にわざわざ椅子を持ち込んで、後ろで図面をがりがりと書いていたグローヴが顔を上げた。よいしょと腰を上げたかと思うと、肩や首を回してぽきぽき音を鳴らしている。

 今までのように上で待ってくれればいいと言ったのに、グローヴは頑として譲らなかった。相手もわからないやつと狭い空間にいて、今のお前は少しも怖くないのかと尋ねられれば、ヘンナは嘘をつくことができなかった。後ろに幼馴染みがいてくれるという安心感があって、不安なくつめ研ぎ師としての仕事をヘンナはこなすことができた。


「グローヴも、今日もありがとう」

「うん……。これが、俺のやるべきことだからな」


 二人と一匹で階段を上って、いつものグローヴの作業部屋へと戻る。革のつんとした臭いに、ほっとした。

 いつものようにお金の受け渡しを行い、椅子に座ってグローヴが淹れてくれるお茶を待つ。かちゃかちゃとカップを取り出す背中をヘンナが眺めていると、ちらりと首を傾けて振り返った目と目があった。


「なにかあった?」

「店の仕事、そろそろ再開するだろ?」

「うん。でも、まずは掃除からしないとね。埃もたまっているだろうから」

「……一人で、大丈夫か?」


 助け出されてから、ヘンナはグローヴの祖父が手配した宿で寝泊まりをしていた。マルジエルやほか協力していた者たちは国に取り締まられたらしいが、どこに残党がいるかもわからない。安全のためにということであり、しばらく過ごしていた。しんと静まり返った部屋に一人でいると背後が気になってしまうようになり、ヘンナにとってもありがたい申し出だった。

 わふんと腕の中でロウソンが一鳴きした。


「ロウソンもいるし、大丈夫。それに、グローヴもたくさん護身用の魔法具くれたでしょ」

「しばらくは、人を店の周りに巡回させる。店の中にも、人を置くか?」

「つめ研ぎにほかの人がいると、お客様が緊張しちゃうから。……ありがたいけど、遠慮する」

「なら、魔法具は肌身離さず持っとけ。今もあるだろ?」


 グローヴに言われて、ヘンナは首から下げていたネックレスを服の下から取り出した。以前と同じように麻酔薬となるユストゥスの実を隠しているのはもちろんのこと、常にヘンナの位置を把握でき、魔力を注げば目眩ましにもなる。もっと殺傷能力があるものをと言われたが、それは断った。

 きちんと身に付けていることを確認したグローヴはうんと頷いて、お茶を注いだカップを手渡した。


「じいさんが、後悔してた。いままで無事だったから、気が抜けてたと。俺もだ」

「それはお互いさまだよ。私がもっと警戒してたら……」

「お前は、つめ研ぎ師だ。そうじゃなくても、性格的に警戒できないだろ」


 ぐるぐると後悔してしまいそうなヘンナに対して、それ以上落ち込んでしまう前にグローヴが先制してぴしゃりと言い切ってしまう。勢いに呑まれてぱくんと口を閉じるヘンナに、ずずっとグローヴが自分のお茶に口をつけた。

 ふうっと一呼吸をおいて、何気ない調子で一言言われる。


「お前が嫌なら、しばらくこっちの仕事に関わるな。俺からじいさんに言う。……今回のことで、もっと危険も増える」

「でも、つめを塗ってもらいたい人たちは――」

「それはどうでもいい。お前がつぶれるぐらいなら、そうしたほうがいい。ずっと、悩んでただろ」

「それは、そう、だけど……」


 付き合いが長いだけあって、ヘンナの心情はグローヴに見透かされていた。まだ湯気が出るほど熱いカップのお茶に映る自分と、ヘンナはじっと見つめ合う。迷う心はあっても、出した結論はやっぱり変わらなかった。

 顔を上げて、こちらを見ているグローヴに答えた。


「悩んで、苦しんだとしても、やっぱりこの仕事をやりたいの」

「それは、本心か?」

「本心の、一つではあるよ。もしも辞めたとしたら、きっと私はそれでも苦しむと思うから。今はこの仕事を続けたいと思ってる」

「……そう言うのなら、俺はお前を助けるだけだ」


 ありがとうと言ったヘンナに、ただしと釘を刺すようにグローヴが言葉を続ける。


「続けるのなら、これから大変だぞ。じいさんは、狙われるなら、その前に貴族を味方につけると。権力を持つ貴族と、これからお前が顔を合わせることになる」

「貴族様に、庇護してもらうっていうこと?」

「変に探られるぐらいなら、け口をつくるということらしい。お前が嫌なら、じいさんも考えるとは思うが……貴族の争いに巻き込まれたばかりだろ」

「うん。……でも、これから続けていく上で、無視できないことだと思うから」


 思い出したくもないことに巻き込まれたけれど、それと同時にあの貴族の屋敷で泣いていた小さなお嬢様のことも忘れられなかった。あの杖の男マルジエルの言ったことが正しいのなら、貴族独特の悩みとしてつめの色を変えたい人も多い。これからも続けると自分が決めたのなら、ヘンナは目を反らしたくないと思っていた。

 じいっとその様子を眺めていたグローヴが、はあっと長いため息を吐いて脱力した。ぐてんと椅子にもたれかかる姿にヘンナがまばたきをしていると、珍しくその口元に小さく笑みを浮かべた。


「成長したな。俺も、置いていかれないようにしないと」

「ええ? そうかな」

「俺とお前は、似た者同士だからな。お前が変わるなら、俺も変わるべきなんだろ」

「そんなこと思ってたの?」

「思ってた。……変わったきっかけは、やっぱりあいつか?」


 グローヴにそう言われて、隠すようなことでもないはずなのにヘンナは一瞬返事に戸惑った。誤魔化すように膝の上のロウソンの頭を抱き締める。

 素直に言えないヘンナに、そういうところは相変わらずだとグローヴがぼそりとつぶやく。


「あんな事件に巻き込まれた後だ。国から探りが入ると思ってたが、全くその気配がない。……あの男が、何かしたのか。多くの貴族の不正に手を染めていたからか、国はかなり頭を抱えてる。それもあって、こっちに手が回らないのか」


 あのパーティに乱入した赤いつめの怪盗――マルジエルの手の者は、その場にいた王立魔法学校の学長が魔法を使って捕らえたらしい。その後、速やかに憲兵が呼ばれたかと思えば、何故か騎士団も詰めかけて、その場は大混乱となったらしい。そして、赤いつめの怪盗をすぐさま尋問して、裏にある計画と全てを仕組んでいたマルジエルのことを吐かせ、そのまま捕縛に動いた、というのが、あのときその場にいたヘンナが感じた爆発のようなものの正体だった。まるで、最初から全てわかっていたような動きだったという。実際に、あのときには全て騎士団側も計画していたのだろう。

 ヘンナの下に騎士団が訪ねてこないのはよかったが、あの日さよならも何も言えずに別れたクローも姿を見せなかった。あまりにも何もなくて、幻だったかと思うほど。

 騎士団が忙しいせいかと思いつつも、遠くなる意識の中で聞いた言葉をヘンナは思い出す。君を怖がらせるようなものはみんなもう近づかない。


「もしかして、自分ももう二度と会わないつもりなのかな……」


 クローは、自分自身も怖がらせるものだとして会いにこないのかもしれない。

 自分で呟いて、少し落ち込んでしまったヘンナにわふわふ鳴きながらロウソンが鼻を押しつけてくる。ヘンナはその頭をくしゃくしゃに撫でてやった。


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