第49話 それは少女のような願い

 その後、グローヴと別れてヘンナは自分の家へと真っ直ぐ帰った。玄関の扉を開けて入る前に、一度に立ち止まって振り返る。通りすぎる人は誰もこちらを見ていないし、怪しい人もいない。それでも、どこかで自分を保護するために見張っている人がいるのだろう。

 どこで見ているかわからない人に小さく頭を下げて、ヘンナは我が家に入った。


「さて。帰って早々だけど、お掃除しようか、ロウソン」


 わふんと元気良く返事をするロウソンの頭をなでてから、お店側の扉を開いた。ずっと閉めきっていたためにやはりむっとした空気が籠っている。カーテンを開け放して、窓も開けて、ヘンナはロウソンに指示を出す。


「それじゃあ、ロウソンはちりとりを持ってきてね。私がほうきで掃くから」

「わふっ」


 ぱたぱたぱたと足を動かして、はりきったロウソンがちりとりを取りに行く。ヘンナも掃除用の手袋を装着してほうきを手にとり、端から丁寧に掃いていく。何もしていないのに、埃や塵というのはどんどんたまっていく。

 掃いてしまったら次は雑巾がけ、ロウソンにはごみ袋を外へと持っていってもらう。床の上をきれいにしたら、清潔な布巾でテーブルや椅子も拭いていく。


「大体綺麗になったかな。それから、もらった絵も飾らないと……」


 師匠から渡された絵は、ずっとテーブルの上に置いたまま飾られていなかった。手袋を外したヘンナは埃避けに被せていた布を取り払って、その絵画を両腕で掲げてみる。

 赤みがかった紫の空にぐるんと目を見開いたような大きな太陽と淡くかすむような小さな月が並んだ絵。タイトルは、「憧憬」らしい。マゴーが、リトリアを通してヘンナに贈ってきたものだ。

 御披露目は途中で台無しになってしまったが、あの場にいた貴族の一人がマゴーを気に入ってくれたらしい。これを足がかりに、次はもっと広い舞台を目指すと気合いを入れているという。……落ち込まなかったわけではないものの、今目の前にあるマゴーの荒々しい絵の様子を見ると、諦めていないことがわかる気がした。

 次の大きな舞台に立つとき呼んでもらえるように、自分ももっと頑張らなければいけない。

 店側の入口横の壁に絵をかけて、ヘンナは心を決めるようにそれを見上げた。隣でロウソンも首をかしげながら、真似するように絵を見上げる。


「もう大丈夫なの?」


 外から声がかけられる。わふんとロウソンが機嫌良く鳴いた。振り返るとそこには窓から身を乗り出してこちらを見る幼馴染みのリュシーがいた。あの日、ロウソンを預けたたまま帰らなかったことで随分と心配をかけてしまった。


「うん。むしろ休みすぎたぐらいだと思う」

「今までが働きすぎなの。もっと私と遊んでくれたっていいのに」


 掃除をしていて汚れているからと距離をとろうとするヘンナに、リュシーは戸惑うことなく腕を伸ばして手首をつかんだ。ぐいぐいと引っ張られて窓に近づくと、ぎゅっとそのまま抱き締められる。


「ああ、よかった。まだまだ私と一緒にいてもらわないと困るもんね」

「心配させてごめんね」

「だって、私がそうしたいんだから。……そうだ、そういえば式のドレスはもう決めた? 当日のヘンナの髪は私が綺麗にしたいっ」

「あ。忙しくて、すっかり忘れてた。言ってくれてよかった」


 まさか式にいつもの服で行くわけにはいかない。ドレス以外にもいろいろと準備もある。

 そのまま窓際でリュシーと少し喋ってから、名残惜しそうな彼女を見送ってヘンナは掃除を再開する。といっても、後は在庫確認となる。

 タオルの数や古くなったものがないか、オイルやサントマ聖水、粉末スライムは足りているのか確認する。アリスタイオス農園の蜂蜜は、先日どこからかヘンナの不調を聞きつけて、お見舞いだと多めに送られてきたので十分にある。そのときの荷物には、農園の娘マクリンからの心配の手紙も添えられていた。

 ほかにもネジカネ魔貝やアバレ草のエキスなど一つずつ確認していって、ソマリ花の粉末を保存している容器を手に取った。そういえば、ソマリ花も買っておかなければいけなかった。

 ヘンナはちらりと時間を確認して、外出用の鞄を手に取る。


「ロウソン、ちょっと花屋さんに行こうか」


 わふんと鳴いたロウソンとともに、お店にしっかりと施錠をしたヘンナは花屋へと向かった。

 ソマリ花は、お祭りやお祝い事に使われるものなのでどこの花屋にも置かれている。どこへ行っても手に入れられるのだが、せっかくだからとヘンナは少し値は張るけれども品質のいい花屋を選ぶことにした。

 店の外にも売り物の花の鉢や苗が出ている。ヘンナが近づくよりも先に、ロウソンがぶんぶんと尻尾を振って楽しそうに駆けていった。


「ロウソン、売り物だから気をつけてね。庭に欲しいものがあるのなら、一つ買って帰っても……」

「――あ」


 いつもなら聞き流すような声が、何故かそのときは自分に向けられたような気がしてヘンナは振り返った。そこには、厳つい顔をした筋肉質で大柄な男――いつか、クローに脅されるようにしてつめを塗った相手がいた。恐らく、彼も騎士団の諜報部隊所属のはずだ。

 その手を確認すると、つめはすっかり伸びているようだった。淹れたばかり濃いお茶のように健康的な深茶色のつめが光っている。ヘンナがつくった色ではない。複色マルチカラーのつめは、平時は隠すものなのかもしれない。

 気づいたヘンナを無視するわけでもなく、大男はあわあわと挙動不審になっている。顔を赤くしてじたばたしている大男は、周りから目立っていた。視線を集めていることにも気づいていない様子で、立ち止まったままがりがり頭をかいたり、鼻をこすったり、襟を伸ばしたりと忙しない。

 少し悩んでから、ヘンナは自分から声をかけた。


「こんにちは。お元気そうで、何よりです」

「あ、ああ……お陰さまで、こっちも元気にやらせてもらってる」


 諜報部隊とばれないようにはわざとこういう振る舞いをするのかと疑うほど、怪しい動きをしている。初めて会ったときと比べても遠慮がちな話し方をする男に、あまりしゃべりこむべきではないかとヘンナは話を切り上げることにした。


「お仕事大変ですね。お疲れでしょうから、あまり引き留めてもいけませんでした。じゃあ……」

「ああ、いや、俺はいいんだがよっ。その、あんたは花屋で何を?」

「え、ソマリ花を買いに……」


 そこで、ヘンナはふと思いついてしまった。

 もしかしたらもう二度と会うつもりがないかもしれない相手。まさか、ヘンナから騎士団を訪ねていくわけにもいかない。いつもふらりと思いがけない形で会うばかりで、連絡先も知らない。

 だから、賭けてみようと思った。


「――もうすぐ結婚式なんです。だから、そのためのソマリ花を買いにきました」


 ひゅっと大男が息を飲む。

 どうか願いが叶うようにという思いを込めて、ヘンナはその顔を見つめた。


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