第4話 塩とオイルと魚

 ヘンナは、クローの両手首をそれぞれつかむとぷらぷらと左右に揺らした。


「力を抜いてください。はい、ゆっくりゆっくりでいいですからね」

「まだ、力が入っていたか? そんなつもりはなかったんだが……」


 ぷらんぷらんと揺らしていくうちに、ようやく力が抜けてきたらしい。重くなってきた両手をそっとテーブルの上に置いて、もう一度片方の手首を引き寄せた。


「それじゃ、こちらの手からきれいにしていきますね。見た限りでは傷とかはないようですね。痛いなと思ったら言ってください」

「ああ。手には、たしか傷はなかったと思う」

「そうみたいですね。もしかしてクローさんって警備隊とかそういうお仕事の人ですか?」

「それは、どうして?」


 言い当てられて驚いたのか、せっかく緊張が抜けてきていたのにまた力が入って固くなってしまった。リラックスしてもらうための雑談だったのにと反省しつつ、ヘンナは落ち着かせるように手の甲をやさしく叩いた。


「手を見れば、どんなふうに使っているのかはわかります。警備隊の人の手を見たことがあるんですけど、皮膚の固くなっている部分とか、傷跡になっている箇所、あとつめを短めに整えているところとか似ています」

「なるほど。まさにその人を知りたければ手を見よというのは、つめ研ぎ師の言葉だったのか」

「私はなんとなくですよ。私の師匠は、朝に何を食べたかとかまでわかりますよ」

「それはすごいな」


 また緊張が抜けてきたところをすかさず清めるのを再開する。手首から手のひら、そして徐々に指へと伸ばしていく。クローの指はしっかりとして、少し厚みがあり、関節がごつんと太く、すらりと長かった。また、手袋越しでもはっきりわかるほど皮膚が固く、弾力がある、仕事をする手だ。指先近くになったところで一度手を止めて、ヘンナは声をかける。


「それでは、つめの先のほうまできれいにしていきますね」

「ああ、よろしく頼む」

「はい。それでは、一本ずつですね。指先はまだ少しだけ冷たいようですね。でも、つめの色はきれいになってきたみたいで安心しました」


 指はまだ冷たかった。しかし、つめは最初に見たときよりも色を取り戻しているように見えた。つめの色というのはすなわちその人の魔力の色だが、魔力とは血と同じように心臓から全身を巡って流れる。身体が冷えたり、疲労だったり、ストレスだったり、栄養不足で指先まで魔力が届かないことがある。このまま温もりを取り戻せばつめの色もきれいになるだろう。

 つめを拭うときには、力を入れすぎずに浮かしてなでるようにして清潔にしていく。つめの輪郭を丁寧にやさしくなぞる。欠けがない、少し角ばっていてきれいなつめの形をしている。


「つめ研ぎ屋が初めてということは、自分でお手入れなさってるんですよね。とてもお綺麗に整えられていますよ」

「つめの形がきれいというのは、たまに言われるな。私としては、適当に気が向いたらやすりを使ってるだけなんだが」

「やすりをかけられるだけでも大変いいことですよ。私のお客様でも、やすりをかけるのがめんどくさいと伸ばしっぱなしで私に任せる方もいますし」

「いや。私も田舎からこっちへ出てきてから、つめくらいちゃんと整えろって言われてやってるだけなんだ」

「それでも、きちんとやっていてえらいですよ」


 そう言ってしまってから、あっと心の中でヘンナは失敗を感じた。年上の男性を誉めるというのは、ちょっと馬鹿にしたように感じられるかもしれない。お客様と雑談することはよくあるが、施術に気をとられると話し方がちょっと馴れ馴れしくなってしまう。まだまだ未熟な証だなとヘンナが相手の反応をうかがうと、きゅっと口をひん曲げていた。怒ってはいないようだったが、適切な言葉でなかったと反省する。

 両方の手を清め終えて、ヘンナは手を離した。爪やすりに手を伸ばしかけて、緊張している初めての客のつめをやすりにかけるのはまだ早いとやめる。


「手を清めるのは、これで終わりです。次に甘皮処理をしましょう」


 甘皮とは、つめの生え際と肌の境にできるものだ。つめと皮膚の間を保護するための膜ではあるが、余分なところを除去することでつめの保湿効果が高まる。これを処理するために、指先を温水に浸してもらう。

 ヘンナは作業台の一番下から石彫りのボウルを取り出した。これは祖母の代から使用しているものだった。ボウルの材料として使われた石がとても良いもので、水を入れるとボウルから良い成分が滲み出すとか何とか。詳しいことはヘンナにもわからない。

 作業台に置いてあったお湯と水をボウルに入れて、人肌よりちょっと熱いぐらいに調整する。手袋を一旦外して、素手でちょっと温度を確認する。


「では、ここに指先を浸けてください。甘皮がふやけるまでの間に少し手のマッサージをしましょう。手を温めるために、塩とオイルを使いましょうか。香りはありがいいですか、なしがいいですか」

「できれば、なしがいい」


 クローの要望にうなずいたヘンナは作業台から塩が入った容器とフラドックスの魔種から搾り出したオイルの入った容器を取り出す。どちらもスプーンで三杯ほどすくって、調合用の皿の上に入れる。よくよく混ぜてから、ヘンナはもう一度手袋を装着した。


「それでは、塩とオイルを肌に塗りますから違和感があれば言ってください。はい、塗りますよ」

「問題ないと思う。……オイルは何となくわかるが、何で塩なんだろうか?」

「塩には保温効果がありますし、お肌の老廃物も除去してくれるんですよ。ただ、肌の弱い方にはお勧めできませんね。あと怪我をしていたら傷口がものすごく痛くなります。ちょっとずつ塗り広げていきますけど、痛かったりしたらすぐに言ってください」

「わかった」


 ゆっくりとお湯もかけながらもみこんでいくが、特にクローが嫌がる様子はなかった。そこで少しずつ血の巡りを良くすることを意識して、何度も手首から掌へとヘンナは手を滑らせた。だんだんと感触が滑らかになっていくのがわかった。

 しゃりしゃりと塩オイルが広げられていく音と水の跳ねる音が室内に心地よく響いた。クローもだんだんと慣れてきたようで、すっかりヘンナの手に身を委ねている。


「塩とオイルをもみこまれてるとまるで料理でもされているようだが、抗い難いほどに心地いいな。まな板の上の魚も末期はそんな気持ちだったかもしれない……」

「クローさん、魚がお好きなんですか?」

「ほかの奴らには非難されるが、私は肉より魚派だな。昔は川に行ってよく釣りをした」

「魚もおいしいですものね。お休みにはよく釣りに行かれるんですか?」

「いや、釣りは大人になってから行かなくなってしまった。今の仕事が終わったら、川の流れる静かなところへ行きたいな」


 オイルを塗りこまれているうちに、少しずつクローの口も滑らかになっていく。他愛ない雑談をしてリラックスしながら、ヘンナはマッサージを両手に施した。そして、温水が冷める前に終わらせる。

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