第3話 新しいお客様

 窓にはまだ横殴りの雨がぶつかっている。ヘンナは窓へ近寄ってカーテンを閉めた。まだまだ雨は止みそうにない。

 カップをテーブルに戻した男は、少し赤みの戻った顔で室内をぐるりと見回した。


「しかし、つめ研ぎ屋か。こんな感じなんだな。……ああ、申し訳ない。じろじろと見てしまって」

「構いませんよ。つめ研ぎ屋が初めてでしたら、いろいろめずらしいでしょう」


 この国では誰もがつめを特別大切にしているが、誰もがつめ研ぎ屋を利用するわけではない。大切だからこそ他人に任せるなんてできないと自分や身内によって手入れをする人々もいる。つめが割れてしまって、どうしても仕方がなくという感じで渋々来店するお客様もいる。

 ヘンナは、雨の中の暇をまぎらわせるように説明していく。


「今、クローさんが座っている椅子にお客様には座っていただきます。テーブルを挟んで、向かいの席に私が座って施術をするんですよ。その間、相棒のロウソンはお客様の足元でお昼寝のお仕事をしてくれます」


 ロウソンはいつの間にかクローの椅子の横で丸くなっていた。いつも施術中はそこが定位置になっている。そこが一番ストーブの暖かさを甘受できる位置だからだろう。


「この子が、ロウソンか。さっきも立派な警戒ぶりだったな」

「ああ、私が警戒してたからですね。この子は本当に穏やかでやさしい、いい子なんですけど」

「いや、私は警戒するべき怪しい人物だった。この子はとても賢い使い魔だな」


 穏やかにロウソンを見下ろすクローにヘンナもほっとする。テーブルに置かれているカップを見るとほとんど空だったので、もう一杯淹れようとしたところでクローがところでと少し言いづらそうに切り出した。


「私も、つめ研ぎをしてもらうというのはどうだろうか? ここまでしてもらって、ただそれだけというのも心苦しい。この店のサービスに金を払わせてほしい」

「え……? いえいえ、気にしないでください。私はつめ研ぎ師として、やって当然のことをしたまでです」


 一瞬、これは新たなお客様をつかむチャンスではという考えがヘンナの中に浮かばなかったわけでもない。しかし、つめを研いでもらうというのは信頼がないとできないものだ。店には来たものの、緊張が取れずに指が石のように強ばったままであったり、泣き出してしまったり、叫んでしまう人もいる。それを親切にしたということを盾にして、無理強いしてはいけない。

 だから、ヘンナはきっぱりと断った。


「ですから、無理に施術を受けようなんて考えないでください。気にするというのであれば、お茶代だけもらいます」

「そうか。……別に無理にと言ったわけではなく、興味が出てきたから言ったんだが。でも、女性に男の手を触れと言うのは失礼な話だったな。ここは女性専用のつめ研ぎ屋だったか」

「あ、いえ。うちは数少ないながらも男性のお客様もいらっしゃいますが……ええっと、いいんですか?」


 もしかして気をつかっているのではなく、本当に興味があるのだろうか。それなら、この新規のお客様を逃したくはないという気持ちがヘンナの中でそわそわしてきた。そのあと一歩の背中を押すように、クローはカーテンに隠された窓のほうをちらりと見た。カーテンの隙間から雨音がぼつぼつぼつと漏れてきている。


「まだまだ雨も止みそうにないし、よければぜひ。あなたが親切で信頼できる人物であるのは、この短い時間の中でも十分にわかったからな」

「そ、そうですか? それではそれでは、少々お待ちください。準備をしますから」


 やったと浮き足立ちそうになるのを抑えて、つめ研ぎ師は自分がつめのスペシャリストであるプライドを持ち、余裕を持って当然のように完璧な施術をしろという師匠の教えを胸で三回唱える。緩みかけていた背中のエプロンの紐をしっかりと結び直して、ヘンナはささっと施術のための準備を整える。カップとティーポットを片付け、棚から新しいタオル取り出し、簡易キッチンから熱いお湯と冷えた水をそれぞれ違う水差しに入れて作業台の上に置く。施術用のテーブルを一度きれいに拭いてから、ヘンナはクローの向かいの椅子に座った。


「これは大事なことなので最初にお伝えしておきたいんですが、私に触られて嫌だなとか、違和感があるなとかがあればすぐにおっしゃってくださいね。それと、施術は手袋あり、なしのどちらがいいでしょうか?」

「違和感があればすぐに伝える。しかし、やはり手袋がないほうがやりやすいだろう」

「私はどちらでもできますから、お客様のいいほうでいいんですよ。つめを隠されながらだと不安になるという方もいらっしゃるし、直に触られるのが緊張するという方もいらっしゃいますから」

「……では、手袋を、してもらえないだろうか」

「かしこまりました」


 手袋ありを所望され、ヘンナは作業台の引き出しから自分の手にぴったりと白い絹の手袋を取り出す。指の先までしっかりとはめて、手首のところを紐でしっかりと固定する。


「それでは、施術を始めさせてもらいますね。よろしくお願いします」

「ああ、よろしく。それで、手はどうしたらいいだろうか?」

「力を抜いて、タオルの上に両手を寝かせてください。まずは、クローさんの指を一本一本きれいにさせてもらいますね」


 テーブルの上にタオルを広げて、作業台からボトルを取り出す。中身は、殺菌効果のあるの魔薬草サントマを搾った濃度の薄いサントマ聖水だ。しかし、まずその段階でクローはつまずいたようだった。困ったような顔をして、ヘンナが持っているボトルを見ている。


「そのボトルをもらえば、私が自分でやるが」

「いえ。これは、私がクローさんの手の状態を把握するためと、それから本当に私が手に触れて大丈夫かを確かめるためでもありますから」


 そうなのかと納得してクローはテーブルの上に手を置くが、緊張して指が反りぎみになっているのが見てわかった。すぐに手を清めるのはやめて、ヘンナはもう一度声をかける。


「あの、途中でも嫌になったらちゃんと止めますからね。怒らないので、ちゃんと言ってくださいね」

「……まさか、この年齢になって年下の女の子からそんなことを言われるようになるとは。いや、すまない。女性に触ってもらうというのは思いのほか緊張するようだ。だが、問題ないから続けてくれ」

「それじゃあ触りますけど、違和感があればすぐに言ってください。……では、手首から触りますよ」


 サントマ聖水を専用のガーゼに染み込ませて、まずは手首にそっと触れる。手袋越しでもどくどくと脈が早いことがわかった。何も言わないので顔色をうかがうと、口をきゅっとつむっている。嫌そうではないが、緊張は高まっているようだった。

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