第2話 大嵐と男
そこで、男はああっと鼻声を上げてローブから腕を出した。
「すまない、自分が怪しいのはわかっているんだ。ええっと、そうだ、まだ手も見せていなかった……!」
寒そうに指を擦りながら、掌を顔の方に、爪をヘンナに見せるようにして顔の横に持ち上げる、初対面同士での挨拶だった。他国では挨拶として握手をするところもあるらしいが、この国ではよく知りもしない相手に手を預けるなんてとてもできない。
赤い爪だった。暗い室内の中で煌々と燃える火のような深紅だった。しかし、ヘンナが何よりも目に入ったのは爪先だった。寒さで白っぽくなっているのがわかる。
それを見て、ヘンナは踏み込めなかったもう一歩を、さらに二歩、三歩、四歩と途中でロウソンも飛び越えて男に近づいて目の前の顔を見上げた。よく見ると唇の色も悪く、寒さ以外にも疲労感が顔ににじんでいる。じっと見上げるヘンナに、男は視線をそらしつつ唇の片端だけ持ち上げて不器用に笑った。
「ああ、いや、すまない。出ていけと言うんなら、もちろんすぐに出ていく。……その、怖がらせて、すまなかった」
「あ、違うんです。その、これをどうぞ」
今にも扉から出ていきそうな男を引き留めて、ヘンナはエプロンの前ポケットから乾いたタオルを取り出した。それを手の上に乗せると、男はじっとタオルを見ていたがおもむろに濡れた顔を拭いた。すんと鼻をすすった音を聞いて、ヘンナは店の奥に置いてあるお客様用の椅子を示した。
「入口は寒いでしょうから、こちらへどうぞ。ここに座ってください」
「そこまでしてもらわなくとも、私は屋内にいさせてもらってるだけで十分なんだが」
「では、こちらにいらしたら十二分になるはずです。タオルももっと使いますよね」
横の棚からタオルを3枚ほど引っ張り出して振り返ると、まだ男は椅子の横で水滴をぽたぽた落としながら立ったままだった。タオルを椅子の前のテーブルの上に乗せて、ヘンナは首をかしげながら座ろうとしない男のために椅子を引いた。
「どうぞ。こちらのタオルも使ってください。……足を怪我していて座りにくいとかであれば、肩をお貸ししますよ」
「いや、いやいや。ここまでしてもらえただけでも大変助かっている。その、椅子の上のクッションは私が座ると濡れてしまうだろう?」
「ああ、そんなことでしたか」
お客様の椅子にはくつろいでいただけるように、南方のダンダン羊の毛を使ったクッションを敷いている。しかし、これのせいでお客様が座れないというのなら意味のないものだ。ヘンナはクッションをわしづかんでぽいっと投げ捨てた。床に落ちる前に、わしっとロウソンが口でキャッチをした。
「ロウソン、それは洗濯籠の横に置いておいてちょうだい。では、座っておいてくださいね。温まるお茶を持ってきます。苦手なものとかありますか?」
「いや、そんな気を使ってもらわなくとも……」
「偶然であったとしても、うちのお店に来ていただいた方をそんなつめ色のままでいさせるわけにはいきませんから」
「……つめ?」
ぱたぱたと洗濯籠に走るロウソンと一緒に、ヘンナも部屋の隅にある簡易キッチンに駆け足で向かう。簡易キッチンはお湯を沸かす程度しかできない小さなものだ。もう来ないだろう予約のお客様のために事前にお湯を沸かしていたから、それをもう一度火にかけるだけでいい。ポットに茶葉とジンジャーパウダーを入れているうちにすぐにやかんから湯気がぽっぽっと出た。カップに少しだけお湯をいれてくるっと回すようにして器を温め、お湯を流しに捨てる。ポットにお湯を注いで、カップと一緒に急いで戻った。
ちゃんと椅子に座って待っていた男は、ローブを脱いでタオルで腕や首もとを拭っていた。戻ってきたヘンナを見て、ぺこりと頭を下げる。
「その、ありがとう」
「どういたしまして。……あら、私ローブをちゃんとお預かりすればよかったですね。ハンガーにかけておきましょうか? そうだ、奥の部屋から魔導温風器を持ってきて乾かしましょうか」
作業台の上にポットとカップを置いてから、ヘンナは男の足元にぐしゃっと丸めて脱ぎ捨てられている濡れたローブに気づいた。しかしヘンナが乾かそうかと提案すると、男がぶんぶんと首を振って足の間に挟んでしまった。
「その、濡れていて本当に汚いんだ。お気遣いだけ受け取らせてもらおう」
「そうですか? では、使い終わったタオルを預かりますね。寒くないですか、ストーブもっと近づけましょうか?」
「本当にそこまでしてもらわなくてもいいんだ。何だか申し訳ないな」
もっと何かをしようという気持ちを抑えて、ヘンナは濡れて少し泥汚れのようなものがついたタオルを回収するのみにとどめる。過剰な親切は押し売りと一緒と念じて、ヘンナはタオルもクッションと同じく洗濯籠に入れる。くるくると足にじゃれつくロウソンに、ちょっとどいてねと言いながら男のもとへと戻った。男は、魔石式ストーブに手をかざしているようだった。
「温まってきましたか? 茶葉も十分蒸らせたと思うので、お茶をお淹れしますね」
「ああ。……その、私のつめは、そんなに一目でわかるほどおかしかっただろうか?」
「え?」
ポットからカップにお茶を注ぎつつ、男の言葉に何のことかとヘンナは頭をひねる。そこで、そんなつめ色のままではいさせられないと言ったことを思い出した。つめを人一倍気にするこの国の人間にとっては、傷つく言葉だったかもしれない。思わずがちゃんとポットの底をカップにぶつけてしまった。
「あの、そんなつもりではなかったんです。つめの色が冷えて少し霞んで見えたのが心配で……って言い訳になりませんよね。つめ研ぎ師として未熟でした。申し訳ありません」
「ああ、つめ研ぎ師の方だったのか」
「そうなんです。私、自己紹介もしていませんでしたね。……あ、お茶をお先にどうぞ」
淹れたお茶を男のほうに差し出しつつ、ヘンナは作業台の3番目の引き出しの中からプレートを取り出した。初来店のお客様には、信頼と安心を得るために必ず見せることにしている。
「はじめまして、つめ研ぎ師のヘンナです。つめ研ぎ師の国家資格は6年前に取得しました。そのほかにもハンドマッサージのマスタークラスと魔法薬管理2級も持っています」
ヘンナは軽く自己紹介しながら、先ほど男がして見せたようにつめが相手によく見えるように顔の横に手を持ち上げた。ヘンナのつめは、やっと土から顔を出した新芽のような瑞々しい薄緑の色と母から言われていた。
つめの色を見た男はうなずいて、さっと姿勢を正した。
「私こそ、気ばかり急いて名前も言っていなかった。クローだ。助けてもらって、本当に感謝している」
「いいえ、つめ研ぎ師として見逃せなかっただけですから。どうぞ、お茶を飲んでください」
「では、遠慮なく」
クローはカップの側面を手のひらで包むように持ち上げて、ずずっと熱そうに少しずつ飲んでいく。ちらりとヘンナがつめを確認すると先ほどよりも色が少しだがましになっているようだった。
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