第5話 都会のマナー


「マッサージもこれで終わります。……ロウソン、これお願いね」


 ボウルから手を引き抜いて、ヘンナは素早く手袋を脱いで一まとめにした。そして、相棒の名前を呼ぶとぽてぽてやってくるので塗れた手袋をはいと渡す。ロウソンは手袋をくわえて、またそれを洗濯籠へ入れに行った。

 タオルで自分の手をしっかりと拭いたヘンナは、また作業台の引き出しから新しい手袋を出して装着する。そして、新しいタオルをクローに差し出した。


「では、手を温水から引き上げて拭きましょう。あまりごしごし強くこすらないようにしてくださいね」

「わかった。……水から手を引き抜くと、肌の感覚が全然違うな。さっぱりとして気持ちがいい」

「なら、よかったです」


 クローが手を拭いている間に、ボウルの中の水を足元に置いてある桶の中に捨てる。ざあっと水を切って、ボウルは作業台の一番下に戻す。

 次に、ふやかした甘皮をつめから取り除く作業に移る。ちなみに初めてのお客様はつめやすりの次に、ここで怯える人が多かった。


「次に、いよいよふやかした甘皮を除去するんですけど、使う道具がこちらになります」

「それは、木の棒か?」

「先のほうが平べったくなっていて、ちょっとスプーンみたいになっているんです。これで、指の甘皮を押し出していきます」


 作業台から甘皮処理用のプッシャーを取り出して、クローにもよくわかるようにして見せる。柔らかい安全な素材であることを示すために、掌で軽く先端を押してくにゃんと先端が曲げて見せる。しかし、クローの顔は明るくはならなかった。自分のつめと器具の間を何度も視線が往復している。


「それを、どういうふうにして使うんだ?」

「こうやって、つめの根元へと押し出すようにして、ふやけた甘皮を浮かせて押し出します」


 ふうっとクローがため息をつく。ここを嫌がる人は多い。甘皮処理まで自分でする人はあまり多くないので、慣れない器具と手順に不安に感じるのだろう。もちろん、ヘンナとしても駄目なものを無理はさせられなかった。


「気が進まないのであれば、甘皮処理は飛ばして、保湿クリームとオイルを塗りましょう」

「だが、これも本当はやったほうがいいんだろう。……でも、別にそこまで私は見た目にこだわるわけでもないからな」

「甘皮処理はつめの見た目を整える以外にも目的があります。ちょっと私の手で説明しますね」


 やったほうがいいだろうと思いながらも、自分のつめによくわからない器具を使われるという不信感には勝てないようだった。ヘンナは、説明だけ一応するつもりで自分の手を机の上に乗せた。見えやすいように、横に置いてあるサイドランプも点ける。


「私の指のここ、この根元の部分の皮膚に隠れているところに、マトリクスというつめをつくる機関があります。甘皮処理して保湿することによって、マトリクスから健康なつめが生まれてくるんですよ」

「健康なつめ? 色がいいとかだろうか?」

「それもありますけど、つめが丈夫で分厚く、割れにくくなります。さすがに鉄みたいに固くはなりませんけどね」

「なるほどなぁ。きらきらしているからな……」


 話を聞きながら、クローが首を右に左に傾けながらヘンナの指を観察していた。一応つめ研ぎ師として綺麗に整えているつもりではあったが、じっと見られてしまうと恥ずかしさと緊張がヘンナの中にわき上がってくる。少し指先に力を入ったことに気づいたのか、ハッとクローは顔を上げて、ヘンナと目が合うと視線が宙をさまよった。


「す、すまない、綺麗なつめとはこういうものかと思って……変な、意味ではなくっ!」

「いえ、そう言ってもらえるのはうれしいんです。ただ、つめ研ぎ師のつめとして、見られても大丈夫かなって少し不安に……。なんて、こんなこと言っちゃ駄目ですよねっ。ちゃんとお客様の手は責任を持って綺麗にしますからねっ」


 弱気なことを言ってしまっていることにヘンナは途中で気づいたが、話の軌道修正しようとしたせいで余計に言い訳のようになってしまった。自分の腕を疑うようなことは、お客様を不安にさせてしまう。師匠の教えを守れていないことに自分でがっかりしたが、ここで落ち込んではいけないとヘンナは無理やり胸を張った。

 クローはそうかと言って、緊張のほどけた緩んだ笑みを見せた。かと思えば、耐えられないというように声を上げてははっと笑い始めた。さすがにヘンナも驚いてしまう。


「ど、どうされましたか? 私が施術することへの極度の不安による笑いですか? どうしましょう、気分が落ち着くお茶か甘いものでも……」

「い、いや、違う! ふっ、君は、本当に一生懸命なんだなと思うと、微笑ましくてな……ははっ」


 悪く思われていないのはわかったが、誉められているのかどうかヘンナには判別できなかった。少しずつ笑いが落ち着いてきたクローは、すまないと言いながら自分のつめを明かりにかざした。赤いつめが光を反射して、満足そうに輝いている。


「田舎からこっちへ出てきてすぐに、つめのことでいろいろ面倒事が起こったんだ。だから、情けないことにまだどこかでつめを人に扱われるのに不安感が残ってたみたいだな」

「情けないことはないですよ。町に来てからそういう思いをする方は多いです」


 この国の人間であれば、つめを大事にするのは当然である。しかし、田舎と都会では程度が変わってくる。田舎では自分の手で行うようなことを、都会では行わないと場合がある。例えば、扉は基本的に足で開ける。ドアノブが昔の名残でデザインとしてついているが、基本的には扉の下部に開閉用のペダルがある。これが田舎から都会に出てきて最初に驚くのがこれだと言う。加減がわからない人が力加減を間違えて扉を壊したり、怪我をさせたりなど、それによってトラブルになることもある。

 このような価値観の違いによって、トラブルが起こることが多い。それを思い出したのか、クローはあごに手を当てて頬杖をした。これも都会では忌み嫌われている仕草だった。


「カップは指でつままずに、手のひらだけを使って持ち上げて飲むのがマナーなんて、こっちに来てから覚えたよ。すっかりこっちに馴染んだつもりだったが、まだ自分の中でくすぶってるものがあるっていうのは今気づいた」


 そう言いながら頬杖やめたクローは、手を差し出した。甘皮処理用の器具を片付けようとしていたヘンナは、自分の前に置かれた手を見てぴたりと手を止めた。ちょっと期待しながらクローを見ると頷かれる。


「ここであなたを信頼できなければ、永遠にどんなつめ研ぎ師も信頼できないだろうと思ってな。だから、君に身を任せることにした」

「では、任されました。丁寧に、心を込めて、大切にやらせてくださいっ」


 差し出された手を、ヘンナは手袋をした両手でそっと包んだ。一瞬ぴくりとクローの手が跳ねた気がしたが、最初のように石のような緊張の固さはない。作業台から手首を置くための台を引き寄せて、その上に丁寧に両手を置いた。そして、一本の指のつめ先を持ち上げて静かに器具を添えた。


「それでは、始めますね。手の力は抜いて、器具を受けとめようとして力んだりはしなくて大丈夫です。まず、この指からいきますね」

「ああ……」


 緊張させないように素早く器具の先端部分を滑らせて、甘皮を押し上げていく。薄い甘皮が逆立って白く盛り上がる。これを順番に手早く行っていく。


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