第9話 横柄な憲兵

 しかし、人差し指を塗り終えた頃にドンドンッと激しい音ともに邪魔が入った。

 店の扉が激しく叩かれたのだ。クローを招き入れたときと同じ状況に、まさか泥棒仲間がやってきたのかと身構える。しかし、クローも息を殺してじっと外の様子をうかがっていた。


「憲兵だ! 今すぐ開けろっ!」


 雨音もものともしない怒鳴り声が響いてきた。憲兵は、警備隊と違って貴族街しか警護しない。そのため、このような小さな店の扉を叩くことなど本来ありえない、怪盗でも追っていない限りは。

 ヘンナの手から離れたクローが立ち上がって、扉へと声をかけた。


「鍵は開いている。どうぞ好きに入ってくれ」


 バンッと扉が壊れるような勢いで開けられる。ずかずかとずぶ濡れの状態で二人の憲兵が床を水浸しにしながら入ってくる。苛立たしそうにずぶ濡れのローブの裾を無遠慮に絞って、一人の憲兵が舌打ちをした。


「こんな貧乏くさい店にまでわざわざ足を運んでやってるんだから、そっちから扉を開けて招いたらどうだっ。どいつもこいつも庶民にはマナーというものがなっていないらしいなあっ」

「憲兵様がわざわざここまでマナーを教えにご足労とは。憲兵様のお仕事とはよほど高尚と見える」

「なんだと、貴様……! 口の利き方には気をつけろよっ」


 ダンッと床を強く蹴った拍子に泥が飛び散る。表情を変えないクローが向かい合って、じろりと憲兵たちと睨みあっていた。漏れた魔力によって、ぱちぱちと火花が空間に飛び散って光る。

 もう一人の憲兵がやれやれと肩をすくめた。


「こちらは急いでいる、お前と遊んでやる暇はない。……赤いつめの男を探している。この建物にいる者は全員出てきて、つめを見せろ」

「この店には二人しかいない。しかし、問答無用で赤いつめの男を片っ端から捕まえると? 憲兵というのも楽な仕事じゃないようだ」

「いいから、さっさと見せろ。それともお前は赤いつめなのか?」


 ヘンナは自分の口を両手で覆った。そうしていないと、口から何かが漏れ出そうだったからだ。本当なら、憲兵に今助けを求めるべきなのかもしれないが、様子を見る限りまともな助けは得られない気がした。このままやり過ごせることが一番いいと思えたが、しかしつめはまだ二本しか塗れていない。

 それに、つめの色が本当の色かどうか確かめる方法がある。魔法を使ったとき、どうしてもその人本来の魔力の色でつめが光る。つめをどんなに分厚く塗っても、端から漏れ出てくる。魔法を使わせられたらおしまいだ。ばれた場合、ヘンナごと憲兵に捕まるかもしれない。

 不安で溺れそうになるヘンナの目の前で、クローはゆっくりと手を前に出した。


「そんなに言われるのなら、もちろん見せよう。まず親指のつめだ。これを青だと私は思っているが、憲兵様には赤に見えていないだろうか。それでは、次に人差し指だ。これもじっくり確かめて……」

「もういいっ! 貴様の相手はもううんざりだっ!」


 血気盛んな憲兵がクローの手を払いのけた。他人の手に対する乱暴なその行動にも、クローはわざと恭しく頭を下げてどうもとお礼を言った。

 もう一人の憲兵が店の奥へと歩いてきて、ぐるりと室内を見回した。


「本当に、この建物にはほかに人はいないのか」


 憲兵の鋭い目に射ぬかれて、ヘンナはぶんぶんと首を振るしかできなかった。さっと前に立ったクローに視線を遮られて、思わず安堵する。

 ふんっと鼻を鳴らした憲兵が床に転がっているロウソンを見つけたようだったが、特に気に留めることもなくまたいで扉へと向かう。


「おい、もう行くぞ。ここで時間をとられている場合じゃない」

「ちっ、次に会うときまでに憲兵に対する礼儀を覚えておくんだなっ!」


 そう言い捨てたかと思うと扉も閉めずに、つめも見せない憲兵たちは出ていった。扉からごうごうと冷たい風が入ってきて、温かい室内をかき回した。立っていたクローががちゃんと扉を閉める。


「……あいつらが仕事の雑な憲兵で助かったな。君は、大丈夫か?」

「大丈夫、じゃ、ないです」


 椅子から立ち上がりかけて、がくんと足の力が抜けて床にへたりこんだ。勢いで椅子がひっくり返って、がらんと音がむなしく響いた。ひどく床の上は冷たい。

 はっと一歩こちらに踏み込んできたクローは、しかしそれ以上近づいてくることはなかった。懐に手を入れたかと思うと、ちゃりちゃりんと硬貨をテーブルの上に置いた。


「代金は、ここに置いておく。本当に君には助けられた」

「……まだ施術は終わっていませんけど」

「これで十分だ」


 床に座り込んだヘンナと目を合わせるように、クローは膝をついた。こちらを見つめる顔に優しさを見いだしてしまいそうになって、視線を落とした。今となっては、クローという名前も真実かわからない。


「ありがとう」


 お礼を言ったかと思うと立ち上がり、クローは扉を開けて大雨の中を出ていった。ばたんと扉の閉まる音の後には、ざざざあと強い雨音だけが響いた。

 いまだにうまく動かせない足を引きずりながら、四つん這いでヘンナは倒れていたままのロウソンに近づいて抱き上げた。ぷうぷうと鼻息を鳴らして眠っている。腕の中の温かい存在に、起こさないようにぎゅっと額を擦り付けた。ほのかに柔らかい土の匂いがする。

 その日の大雨は、次の日の朝になるまで止むことはなかった。

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