第8話 赤から青
顔を上げると、にこりとも笑わない顔でクローがこちらの顔を覗き込んでいる。
「私のつめを、塗ってほしい」
「つめを? それは、もちろんお望みであれば保護用のラッカーかジェルを……」
「違う色に塗ってほしいんだ」
「え」
つめ研ぎ師にとって、やってはいけないことが幾つかある。その中の一つに、つめを本来と違う色に塗ってはいけないということがある。
つめの色は魔力の色、個人を識別するものであり、同じように見えても一人一人異なっていて完全に同じものはない。生まれたときにつめの色というのは性別などと一緒に登録されるものだ。つめの色を詐称するのは、つまり自分の身分や経歴、出身を詐称するのと等しい犯罪行為に当たる。つめを隠す人間は、それだけで後ろ暗いことがある人間と見なされる。
そっとヘンナは手を動かそうとしたが、動かせない。クローの押さえてくる力が緩まない。
「……理由は、何ですか?」
「さっき、世間話をしたな。赤いつめの怪盗がいるって話だ。そして、今俺は貴族の屋敷から逃げてきて、憲兵に追われている」
「まさか、あなたが赤いつめの怪盗ということですか?」
「言っただろう。君の店にだって、泥棒が押し入ってくることもあるって」
ふっと息が詰まって、ヘンナは呼吸を忘れそうになった。ひやっと自分の手が冷たく、クローの手が熱く感じられる。つまり、犯罪の片棒を担げということだ。
「……つめの色は自在に塗れません。塗るためのラッカーやジェルというものは、魔力に反応して色を変えるソマリ花を混ぜてつくります。塗られた人の魔力と同じ色にしかなりません」
「品行方正なつめ研ぎ師は、悪用する方法は知らないと?」
「できないと言ってるんです」
きっぱりと断ったが、耳の奥ではどんどんと心臓の音がうるさかった。心の中で、ヘンナは相棒の名前を唱えた。がしゃんと近くの棚から物が落ちる音が響いた。
「ぐぐっ、があああっ!」
足元でおとなしくしていた使い魔のロウソンが、ぶわっと毛を逆立てて何十倍にも身体を膨らませながら唸った。がつんがつんと急激に伸びた蹄で床を蹴って、大きな顎からしゅうしゅうと息を漏らしながら牙を剥き出しにしてクローに飛び掛かった。
その赤黒い口につっかえ棒にするようにして、クローはひじごと腕を突っ込んだ。牙が肌にぶっすり喰い込むが、表情は冷たく変わらない。その隙に逃げようとしていたヘンナの手首ももう片方の手で押さえつけたままだった。
割れるような音がしたとともに赤い光が走り、ばたんとロウソンが意識を失って倒れた。思わず悲鳴を上げる。
「ロウソンっ……!」
「怪我はさせていない、眠らせただけだ。だが、この後どうなるかは君次第になる」
魔法を使ったクローの指先が鈍く赤く光っている。もう逃げる手段は残っていない。抵抗の道を潰されて、ヘンナは逃げようとしていた身体の力を抜いた。
「優しい君は、それを選ぶと思っていた。それを選ばせたのは俺だが」
「座ってください、泥棒さん。赤以外ならどんな色でも、何でもいいんでしょう」
「ああ、君に任せる」
諦めて、作業台から幾つかの道具を取り出す。思わず乱暴に扱ってしまったが、そうせずにはいられなかった。床に転がるロウソンの小さく戻った身体が、息をしてわずかに上下しているのが確認できたことだけがよかった。
さっきまでと同じようにお客様の席にクローは座る。ロウソンに噛みつかれた箇所から血が出ているようだった。一瞬手が止まりかけたが、無視してヘンナは無心で手を動かした。
つめの色を違う色に塗る方法はある。他人の魔力を借りればいい。例えば、他の色の魔力の人のつめや髪を粉末状にしてラッカーやジェルに混ぜれば、本人とは違う色のつめの色に塗れる。ただし、これは長時間はもたない。
つまり、ヘンナの髪を使えば赤いつめを緑に塗ることはできる。しかし、それは気が進まない。もちろん違う人の髪やつめを使うこともできない。だから、また少し違うやり方をすることにした。
引き出しの3番目、その一番奥にこっそり隠している木製の器を取り出した。一度左にかちっと回してから、右にぐるぐると蓋を回して開ける。中には、ネジカネ魔貝をすりつぶしたものが入っている。これを調合皿に一匙入れて器をまた引き出しの奥に戻す。さらに調合皿にアバレ魔草を絞ったエキスを加えてぐるぐると混ぜていく。全体が混ぜって色がクリアになったらつめに塗るラッカーの完成になる。
もう一度手袋を装着し、刷毛を手にとって顔を上げるとクローと目が合った。ロウソンに噛まれた腕は止血したのか、もう血は流れていなかった。赤く染まった袖を隠すように、くしゃくしゃで生乾きのローブを肩からかけている。
「じゃあ、頼む」
「……すぐ終わらせます」
本来はベースを先に塗らなければいけないが、今回は無視することにした。クローの手をとって、自分の手がわずかに震えていることに気づいて強めの力でつかみ直した。調合皿につくったばかりのラッカーを刷毛につけて、親指から塗っていく。まずつめの先をなぞるようにして、次に真ん中あたりからはみ出しがないように刷毛を動かしていく。泥棒に丁寧にやる必要はないんじゃないかとヘンナの中の心がささやく。しかし、手はいつもどおりに動いてしまった。
親指を塗り終わると、クローが首を伸ばして色を確認し始めた。クリアカラーだったラッカーは、じわじわと色を変えて、表面が少し乾いてきた頃には曇りのない青となった。
「……青?」
「何でもいいんでしょう。気に入らないと言われても困ります」
ただ、赤と真反対のものにしたかったというだけだった。手を自分の方へと強く引き寄せて、次に人差し指を塗っていく。早く終わらせて、かわいそうなロウソンを抱き締めたかった。
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