第7話 雷の境目

 ヘンナは作業台の引き出しから手の上に乗る小さなはさみを取り出した。


「次に、甘皮を除去していきます。はさみの刃の先は丸くなっているので、傷ついたりはしませんよ。ほら、こんな感じで」


 ヘンナは手袋を取った自分の親指の下あたりのやわらかい部分をはさみの刃で突いた。当然、刃先が丸いので引っかき傷もできない。そして、もう一度クローの指の甘皮を順に切っていく作業を行っていく。もう指に緊張はないようだった。

 また、作業中のヘンナに声がかけられる。


「君は、自分で料理を作るのか?」

「そうですね。町では作らない人のほうが多いですけど、私は自分で作ります。……つめ研ぎ師なのにと言われることもありますが」


 料理というのは、刃物も火も使うので指に危険しかない。なので、自分で料理はせずに大体は食堂や屋台、レストランで食事を買う人も多くいる。最近はお湯を沸かせる魔道具なども開発されており、若者向け物件にはキッチンがついていないこともあるという。もちろん調理用グローブを着けて料理に励む家庭もあるが、特に都市では料理は専門家に任せるものとなっている。

 ただ、ヘンナは料理というものが嫌いではなかった。しゃくしゃくと甘皮を切りながら答えた。


「料理は気分転換になりますから。でも、私一人だったら作らずに買ってたかも知れないです」

「ご家族の分も作っているのか」

「はい、ロウソンの分も作ります。一人と思うとやる気が出ないですけど、そういうところでもこの子には助けてもらっています」


 少しだけ手を止めて、ヘンナはねっと足元に声をかける。うとうとと重い頭を揺らしていたロウソンが、つやつやの鼻を上げてわふんと鳴いた。

 クローは仲のよい相棒を見て目を細めつつも、そうかと少しだけ低い声を出す。


「君は一人……と一匹での暮らしなのか。大変なこともあるだろう」

「祖母の代からここの店をやっていて、周りには助けてくれるなじみの人も多いですから平気ですよ。ロウソンは優秀な使い魔ですから、怖い人は追い払ってくれますし」

「怖い人が来たりするのか」

「怖いといっても、お金を踏み倒そうとしたりする素行の悪いお客様です。泥棒とかは来たことありません、小さなお店ですから。……さて、できましたよ」


 全てのつめの甘皮を処理し終わって、ヘンナは流れてきた前髪を手首でぐいっと持ち上げた。クローのつめの形がくっきりときれいに出ており、少し大きくなったようにも見える。クロー本人も手を持ち上げて、へえっと眺めている。

 あとは保湿クリームとネイルオイルを手に塗り込めれば終わりだ。器具を片付けながら、クリームとオイルを手に取ったときだった。


 ドンッ!


 激しい音とともに一瞬の浮遊感と地面が揺れる感覚。はっとして身を固くするヘンナをかばうように、立ち上がったクローの腕が頭上に掲げられていた。間近で見上げると鍛え上げられたのがわかる分厚くしっかりとした腕に、一瞬ヘンナはぼうっとしてしまった。しかし、すぐに我に返って立ち上がる。足元にはいつのまにか勇ましくふんふん鼻を鳴らしているロウソンがいた。


「えっと、雷でしょうか? 今の感じからして、近くに落ちたのかもしれないですね」

「……そうだな」


 クローは睨むようにカーテン向こうの窓を見ていた。耳を澄ませば、ざざざあとさっきよりも雨音が激しくなっているように思える。両手に持っていた容器をテーブルの上に置いて、自分の胸の上に手を重ねる。どっどっどっと自分の心臓が駆け足になっていることにヘンナは気づいた。

 わふわふと励ましてくるロウソンに、ヘンナは膝を折って、手袋外した手でよしよしと撫でた。ふわふわの毛を触っていると、少しずつ跳ねた心臓が落ち着いてくる。二度目の雷は来なさそうだった。


「器具を使っているときに雷が落ちなくてよかったです。次から、天候の悪い日の施術は控えないと」

「まぁ、こんなことはそうそうないだろう」

「でも、大切なつめを扱うんですから細心の注意をしないと。……それでは、続きをしましょう。あとは仕上げだけですから、雷がもう一回落ちても手元が狂う心配はありませんよ」


 ロウソンを撫でた手をサントマ聖水でさっと清めて、もう一度手袋を装着する。それでは、続きをと椅子に座ったヘンナの前でまだクローは立ったままだった。


「クローさん、外が気になられますか?」

「ああ。これは、帰りが危ないかもしれないと思ってな」

「そうですね。雷が落ちたら危ないですから。今日はもう外に出ないほうがいいかもしれません」

「そうだな。今日は出歩くことすら、本当はしないほうがよかっただろうな」


 やっとクローは椅子に座り、両腕を差し出した。手袋の上に数種類のハーブを配合した保湿クリームをたっぷりと出して、手の温度で温めてからクローの指先にやさしくなじませていく。とくにさっき甘皮を処理したつめの根元の部分を念入りにケアしていると、ぽつりとクローがつぶやいた。


「君は、さっきもう外に出ないほうがいいと言っただろう。だが、私もいつまでもここに居座るわけにもいかない」

「でも、あんなに大きい雷でしたよ。雨がやむまででしたら、ここのお部屋をお貸しします」

「親切だが、あまりにも危機感がないと思わないか。私は見たとおり男で、君は一人暮らしの女性だ」

「奥の居住スペースとこの部屋の間の扉はきちんと鍵が閉まるようになっていますので。……あ、勝手に触られては困る備品があります。あとで片づけないといけませんね」


 さすがに今日あったばかりの人間と同じ空間で寝るのはヘンナでも無理だが、これなら別に平気だと思っていた。実際、先ほどの雷の威力は凄まじく、雨は弱くなる気配がない。

 しかし、クローはいい顔をしなかった。ヘンナも手の中で、緊張とは違う指のこわばり方をしていた。関節がきゅっと曲がっている。


「心配になるな。世界は一見平和だが、突然不幸が善良な人の頭上に降りかかることもある。君は泥棒は来ないと言ったが、この店に押し入ってくることもあるだろう」

「わざわざこんな古くて小さな店にですか……まったくないわけではないでしょうけど」


 手首まで保湿を終えて、ヘンナは手を離した。今つけている手袋を外したときだった。自分よりも一回りは大きい手が、上から動きを封じ込めるようにして軽く手首を押さえつけてきた。

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