第10話 明くる晴れた日

 雨上がりの空は、雲一つない晴天だった。どこまでも果てがないような澄みきった青い空が広がっている。

 その空を照らす太陽な、生命に輝きと英気を与える光のような深黄色のつめの持ち主が笑った。


「予約が昨日じゃなくてよかった。ヘンナにつめを整えてもらうのは私の大好きな時間だもん。すっかり良いお天気具合だね」

「うん。私も、リュシーのつめを見ているだけで、日向ぼっこしてる気持ちになれるよ」


 幼馴染みであり、ヘンナのお客様第一号であるリュシーは花が無邪気に咲くように笑った。パン屋の娘である彼女からは、いつも焼きたてのパンの安心する香りがほのかにする。お洒落じゃないといって本人は嫌がるが、ヘンナはかわいいリュシーにぴったりだと思っていた。ふわふわのパンほど、人の心に寄り添えるものはなかなかないからだ。

 いつものようにつめやすりで形を整えているヘンナに、向かいに座るリュシーが首をかしげる。ウェーブした髪がふわりと波打った。黄色のつめにふさわしく華麗だった。


「今日のヘンナ、ちょっと元気ない? 何かあった?」

「ちょっと元気ないかも。……その、ロウソンが昨日、具合が悪くなっちゃって」


 仲のいい幼馴染みにも、ヘンナは本当のことは言えなかった。自分でも、あれは嵐が連れてきた悪夢のようなものだったのではないかと思っていた。

 リュシーはああと声を上げて、少し身を乗り出してヘンナの膝の上を覗き込んだ。そこには小さな体を丸めて、ヘンナのお腹に頭をもたれかけてロウソンが眠っていた。


「だから、今日はヘンナのお膝だったんだね。いつもの場所にいないからどうしたのかなって思ってたよ」

「ごめんね。本当は接客中にこんなふうな体勢は駄目なんだけど、リュシーだからって私甘えちゃって……」

「いいよ。だって、私って甘えられるの大好きだもん。もちろん、甘えるのも好きだけどね」


 魅力的な微笑みを浮かべるリュシーにヘンナも淡く割り返しながら、ほっそりとしたその指のつめの白いエッジ部分を丸く磨いていった。つめの表面もつやつやとして撫でたくなるほどだった。

 ちょっと前屈みになったヘンナに、ぷんとロウソンが鼻を鳴らしたので小さく謝った。一晩たって目が覚めると、ロウソンはすっかり元気、というよりしてやられたことに関して怒り心頭という感じで床の上を跳び跳ねているほどだった。しかし、パートナーであるヘンナの不安が消えていないことを察知して、こうしておとなしく膝に収まってくれているのだった。


「よし……。じゃ、つめは研いだから、次はマッサージね」

「うん、たっぷりお願いね。給仕の仕事をしているとつかれちゃうんだもん」


 そう言って、リュシーはくるくると手首を回す。美しい手がひらひらと動いて、まるで蝶が飛んでいるように見えてしまう。そのつめに見とれて告白した男の数は、本人でさえもよくわかっていない。

 リュシーは、庶民でもぎりぎり背伸びすれば入れる高級ホテル内のレストランで給仕をしていた。リュシーの給仕姿を見たいがためにホテルに泊まる常連もいるとヘンナは聞いていた。


「いくら魔法で運べるとはいっても、一気にたくさんはつかれちゃうよね」


 くるんと指先が弧を描き、深黄色のつめがふわっと光る。すると、宙にぽんとロウソンそっくりの小さなぬいぐるみが現れた。重量に制限はあるものの自由に取り出しができるという空間魔法は、天才のリュシーだからできる超高等魔法だった。魔力のあまりないヘンナにはできない芸当だ。

 浮かせたぬいぐるみを手に取ったリュシーは、はいとそれをヘンナに手渡す。


「これ、お客さんにもらったの。ロウソンちゃんに似てるなって思ったから、遊び相手にしてあげて。あ、へんな魔道具とかが仕込まれてないことは確かめたから」

「わざわざありがとう」


 ぬいぐるみをロウソンに近づけると、じっと毛に隠れた目で見つめたかと思うと、口にくわえてはぐはぐとじゃれつき始めた。それを見て、ほとんど同時に二人で笑う。

 少し気分が晴れてきたヘンナは、穏やかな気持ちで温水の入った石彫りのボウルを出した。


「じゃ、指先を入れてね」

「はいはーい」


 ちゃぷんと慣れたようにリュシーがボウルに指をつける。肌が乾燥しやすいリュシー用に、白砂糖とアリスタイオス農園の蜂蜜をさっと調合皿の上で練る。さてマッサージをしようと砂糖と練った蜂蜜を手に垂らしたところで、そういえばとリュシーが楽しそうに口を開いた。


「そういえば、昨晩また出たんだって、赤いつめの怪盗!」


 ぎくりとしてスプーンを落としそうになったヘンナは、慌ててぎゅっと持ち直した。リュシーは楽しそうに、今朝発行されたばかりのゴシップ紙の記事の内容を話す。


「とある貴族の屋敷、大雨の中しっかり閉じていたはずの窓ガラスがわずかに開いていた。不審に思った使用人が近づくと、そこには光る赤いつめ……慌てて護衛を集めて、憲兵にも通報したけれども怪盗は彼らを嘲笑うように嵐の中へ、金庫にあったはずの家宝とともに消えていったんだって! なんかかっこいいよね」

「……本当に、泥棒してたんだね」

「そりゃ怪盗だから。でも、泥棒って言っちゃうと何だかロマンが足りなくなっちゃう」


 鈴が鳴るようにころころと笑うリュシーに、ヘンナは一瞬だけ口角を上げたが、うまく笑えなかった。今まで、リュシーから笑って何となく聞いていたはずの話が現実の重みを持ってヘンナの目の前に落ちてきた。

 その後、何とかリュシーのつめ研ぎを終わらせたが、大きな失敗をしなかったというだけでまったくうまくできなかった。帰り際には、調子が悪いのなら休むんだよとリュシーに言われ、見送っていたヘンナは扉が閉まった瞬間に長く息を吐いた。

 自分自身に落ち込むヘンナに、わふわふと鳴き声がかけられる。振られた尻尾がぱたぱたと足に当たってくすぐったく、ヘンナは膝を折ってロウソンを抱き締めた。


「こんなんじゃ駄目だよね、ロウソン」


 ぷうと鼻を鳴らす音がする。ふわふわの毛が首筋を撫でてくれた。そのままロウソンを抱いてヘンナは立ち上がり、ほかに誰もいない店内でくるんと一緒にステップを踏んだ。


「もう、嫌なことは忘れちゃおう。お仕事に集中しないとね」


 とはいっても、今日の予約のお客様はもういないはずだった。どうしようかなとロウソンと踊りながらヘンナが考えていたときだった。

 ガチャッと店の扉が開いた。


「いっ、いらっしゃいま、せ……」


 踊っているところを見られてしまったと気恥ずかしく思いながら、ヘンナはやってきたお客様を見て言葉を失った。腕の中のロウソンがぐるるるっと低く唸り声を上げる。

 そこにいたのは、あの大雨の中消えていったクローだった。

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