第11話 ナイフで脅して
昨日とは違ってローブは羽織っておらず、どこにでも売ってるような服を着て、普通の顔をして立っている。
「元気そうでよかった。もっと暗い顔をしているんじゃないかとも思っていたんだが」
今にも腕から抜け出して飛びかかりそうなロウソンを、ヘンナはぎゅっと離さないように腕の力を強めた。また、あんな目に遭ってほしくはなかった。
じたばたと後ろ足を空中で蹴るロウソンを見て、クローは苦笑した。
「悪かった。……といっても、フラドックスは自分のテリトリーを荒らした者は絶対に許さないらしいから、私は一生嫌われたままだろうが」
使い魔であるロウソンは、フラドックスという種の植物の特性も半分持った魔物になる。植物を守り育てるという特性を持ち、自分のテリトリーである庭を荒らすものを決して許さない気性の荒さも持つ。
自分の庭を荒らした相手であるクローに対する威嚇が止まらず、ヘンナは困って上下に揺らしながら宥めた。もう二度と会いたくはなかった。
「あの、何をしに来たんですか?」
「君の様子を見に来た。あれから、憲兵たちがまた訪ねてくるようなことはなかったか?」
「来てません。来ても何も話さないと約束しますから、もう帰ってもらえませんか」
「別に、私は釘を刺しにきたわけじゃないんだが……」
何気なく持ち上げられたクローの指には、昨日塗った青はもう落とされて、赤いつめだけがあるのをヘンナは捉えた。憲兵の目はあの一瞬だけ誤魔化せればいいのであって、ずっと青のままだと逆にばれた時に怪しくなってしまうからだろう。
じりじりと距離をとるヘンナに、クローがそれよりも大きい一歩で近づいてきた。
「でも、君の警戒は正しい。また、君に頼みがあって私は来たんだ」
「もう、犯罪の協力をするつもりはありませんっ」
「今さら、もう一回や二回罪を重ねたところで変わらないと思わないか?」
「昨日はっ、あなたが言ったから……!」
まるで散歩に誘うような軽いクローの口振りに、ヘンナが言い返そうとしたところ、たった一言でそれは遮られた。
「だって、君はずっと罪を重ねてきたんだろう?」
心当たりがなければ、言葉は続けられた。しかし、ヘンナには言われるだけの理由があるとわかっていて、何でもないふりができなかった。反論もできずにまた後ずさる。そんなヘンナをよそに、クローはさっと長い腕を伸ばして、雨でもないというのにカーテンを閉めた。外の風景が窓から見えなくなるだけで、急に世界が遠のいた心地になる。
しんとした空気の中、クローがまた口を開いた。
「昨日の時点で違和感はあった。……つめを違う色に塗る方法はあるが、あんなやり方は聞いたことも見たこともない。そして、あまりにも動きに迷いがなく、慣れていたんだ」
「あなたが、つめ研ぎに馴染みがないから、そう思ったんじゃないですか?」
「それで、思い出した。……裏でひっそりと生きるしかできない人間のつめを塗るつめ研ぎ師がいるという話を。ただ、それは50年以上前からの話で、若い君とは結びつかなかった」
クローが店内をぐるりと眺め、長く使われたせいで色が少し擦りきれてきた木製の戸棚や古い意匠が施されたテーブル、前時代的なつくりのキッチンの一つ一つに目をやった。全部、祖母の代からつめ研ぎ師としてヘンナが受け継いできたものだった。
「君が受け継いだのかと確信をした。まさか、誰も君がそうだとは思わないだろう。私も実際に目にしなければ信じなかった」
「つめ研ぎに馴染みがないのも、嘘だったんですか?」
「嘘ではない。ただ、後ろ暗い話に精通しているだけだ。……これを嘘だと思うのは、君の自由だ」
あのとき、ヘンナは咄嗟にいつもの自分のやり方でやってしまった。自分の髪を使うと、バレてしまったときにそれを塗ったのがヘンナだと分かってしまう。だから、いつもの最も安全な方法を取ってしまった。クローに見られたとしても、何もわからないと油断していた。
少しずつ後ろに下がっていたヘンナは、後ろに引いた足に机がぶつかったのに気づいた。もう逃げられない。真正面に立つクローは、覆い被さるようにヘンナを覗き込んできた。
「一緒に来てくれ。君につめを塗ってもらいたい人がいる」
「もし行かないと拒否したら、どうなるんですか?」
「……この店に警備隊が来るような噂が広まるかもしれない。怪盗とはまったく無関係の噂だ」
「いっそのこと、ナイフでも突きつけられて無理矢理従わせられたほうがよかったなと思ってしまいます」
自分の意思で従ってしまえば、言い訳ができない。けれど、たとえ悪いことの手伝いだとわかっていても断ることができない。祖母から受け継いだ全てを台無しにしたくないという個人的なわがままのために、ヘンナは抵抗もせずに従うことを選んだ。
了承したヘンナにクローは言葉少なによかったとだけ言った。
「悪いが、今すぐ来てもらう。できるだけ目立たないように、必要な道具だけ準備してくれ」
「わかりました。……ロウソン、あんまり暴れちゃ駄目だよ。ここで待っててね」
よくよく言い聞かせて、ヘンナはロウソンをバスタオルでくるんで洗濯籠の中に入れた。ぐううぅっと抗議のような声を漏らされるが、無視して準備に取りかかる。といってもいつもやっていることなので、そう手間はかからない。
外部出張つめ研ぎ用として、魔牛革製の肩掛け鞄には既に必要な道具は入っている。さらに、清めるための聖水やオイル、ソマリ花の粉末やネジカネ魔貝の灰など、またエプロン、手袋、タオルも入るだけ入れて鞄をしめた。ずっしりと重い仕事道具を肩にかけて、ヘンナは振り返った。
腕を組んで扉の横の壁に寄りかかっていたクローが腰を浮かせた。そちらに向かおうとするヘンナの背中に、ばふわふと必死にロウソンが引き留めてくる。ちらりと振り返ると、こちらへ来ようと必死に洗濯籠を揺らしていた。もう一歩進むと、悲しそうにぴすぴすと鼻を鳴らす音が聞こえた。ヘンナの頭の中に、昨日の床に転がされていた悲しい姿が浮かんだ。
「あの、絶対にあの子を暴れさせないので、連れていかせてください。昨日の今日で留守番させるのは、心配なんです」
「目立たなければどちらでも構わない。ただ、このまま置いていったら、今度こそ目があった瞬間に私の首を狙ってくるだろうな」
「ありが、……どうも」
早足で踵を返して、ヘンナはロウソンがくるまっているタオルをほどいた。途端にふわふわの小さな身体が飛び込んでくる。その温かい背中を撫でてから、自分の着ているワンピースについている横ポケットを指で開いた。
「ほら、おいでロウソン。私が言うまでおとなしくしていてね。そうじゃないとお留守番になるからね」
「わふん」
一つ鳴いたロウソンは、ワンピースの小さなポケットに頭を突っ込んだ。ポケットは到底ロウソンが入れないはずの大きさだったが、ぽすんとロウソンは身体を小さくして入りこみ、頭だけポケットから出した。ポケットはぽんと膨らんだが、ぬいぐるみが顔を出しているだけに見える。
片側だけ重くなったのでバランスを取りながら、今度こそヘンナはクローに近づいた。
「それじゃあ、行きましょうか」
「ああ。ただ、一緒に歩いていて目立っては困るから、私が先に出る。5分後にここを出てくれ。通りをまっすぐ行ったパン屋の前で待ってる。君の姿が見えたら移動するから、つかず離れずついてきてほしい」
「私が、逃げる心配はしなくていいんですか?」
「逃げられないだろう。君は、私に脅されているから」
扉を開けて、ひらりとクローは出ていってしまった。閉まった扉を前にして、倒れるようにしてヘンナは額をごつんとぶつけた。思ったよりも勢いが出て、扉にぶつけた額が少し痛い。扉越しに通りから響く人のざわめきが感じとれた。そのままゆっくりとヘンナは時間を数える。
「そろそろ行こうか。……ロウソン、静かにね」
わふんとくぐもった声を聞いて、ヘンナは扉を開いた。ぱっと日の光が差してきて目を細める。多くはないけれども、人々がこちらに気を留めることもなくどこかへ向かうために歩いていた。
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