第12話 隠れ家の怪我人

 ヘンナは扉の施錠をしっかりとして、扉に引っかけてある看板をひっくり返して本日終了とした。居住スペース側もちゃんと施錠してあるので、泥棒でもない限り誰も入ってこないだろう。

 何てことない顔をして、ヘンナは舗装された通りの道を進んだ。この町の道はどこも平らで段差が少なく歩きやすい。手で荷物を持って歩きたくない人間が大多数であるため、荷運び用のショッピングカートを足で押したり引いてして歩くからだ。魔法で何も持たずに出歩けるリュシーのような存在はほんの一握りだ。

 からからと響くカートの車輪の音を耳にしながらヘンナが真っ直ぐ歩いているとふわりとパンの香ばしい匂いが漂ってきた。パン屋の近くにクローがいるのが見えたが、こちらを一瞥もせず背を向けて行ってしまう。

 見失わないようにと目で追っているヘンナに、横から声がかけられた。


「あら、ヘンナちゃん! 今日はもう店仕舞いなの?」

「こんにちは、おばさん」


 にこにこ明るく笑っているのはパン屋の女将であり、リュシーの母親のブールだった。焼きたてふわふわのパンみたいな深橙色のつめの手を振って、カウンター越しに挨拶をしてくれる。


「お客様の予約がないので、ちょっと買い物です。帰りにパンを買いにきますね」

「あら、ありがとう。じゃあ待ってるわね!」


 いつもの挨拶をして、わざとらしくならないようにゆっくり歩くことを意識して通りすぎた。前方を確認すると、クローの姿が少し遠くなっていた。

 クローはどんどん人の少ない道を進んでいるようだった。カーブのあるスロープを下っていき、ちらちらと姿が見えなくなる。ヘンナは少しだけ早足で追いかけるが、半分ほど下ったところで完全に姿が見えなくなってしまった。

 どうしようとヘンナが足を止めかけたとき、横から強い力で肘をつかまれて引っ張られる。悲鳴を上げる前に、目の前に現れたクローがしっと鋭く息を吐いた。スロープの中腹にある街路樹の向こう、壁と壁の隙間に連れてこられたようだった。


「悪いが、ここからは私が先導して歩く。できるだけ静かについてきてくれ」


 こくりと黙ったままヘンナがうなずくと、薄暗がりでクローがひじをつかみ直した。手が大きいせいで、ヘンナの肘を指がぐるりと一周しても少し余っているようだった。そのまま腕を引かれて、暗い道を進んでいく。たまに段差だと低くささやかれる以外に、会話は生まれなかった。

 わざとなのか何度もぐるぐると歩き回って、やっと足を止めた。何もない壁に手を当てて絵でも描くように手を滑らせると、がこんと音がなって壁がへこんだ。そのままクローが靴先で蹴ると壁が扉のように開いた。中は薄暗く、灯りはつけられていないようだった。


「どうぞ、中に入ってくれ」


 そこでぱっとクローの手が離された。すっかり熱が移ってしまったヘンナの肘は、途端に少し涼しく感じた。


「お邪魔、します」


 促されるままヘンナは建物内に入った。途端に後ろでがこんと壁が元通りになる。ぽっと急に暗い室内を照らされる。クローが魔法でつくった火だった。


「ここは魔力パイプが通ってないから、灯りがつかないんだ。こっちへ来てくれ」


 クローがそう行って部屋の奥へとヘンナを連れていく。建物は広く、廊下には幾つも扉が並んでいた。人の気配はないが荒れた様子はなく、ただ少しほこりっぽかった。

 一つの扉の前にたどり着くと、クローは乱暴に二度と蹴り上げて扉を開いた。


「おい、起きてるか」

「起きたに決まってんだろ、クソガキっ。てめぇの乱暴なノックが傷に響くんだよ……」


 部屋の中には男がいた。当然ヘンナよりも、そしてクローよりも図体の大きい筋肉質な男だった。横になっているベッドが小さく見えるほどだった。上半身を起こしてクローに向かって文句をつけていた男は、そこで廊下に立っているヘンナに気づいたようだった。額から顎まである古傷のせいで悪くなっている目付きがさらに凶悪になる。


「おいっ、てめぇこの状況をどうにかできる助っ人連れてくるって大口叩いてたよなぁ?」

「彼女が助っ人だ。つめ研ぎ師をしている」

「どこからどう見ても、純朴なお嬢ちゃんじゃねぇかっ! こんなとこに連れて来てんじゃねぇぞ!」


 ドスの利いた声を出して、大柄な男がクローの襟元を乱暴につかんだ。はっとヘンナは息を呑む。

 室内の明かりはベッドサイドに置かれているカンテラだけで薄暗いが、男の腕から指先まで包帯が巻かれていた。すんと鼻で息をすれば血の臭いがする。少し包帯の緩んでいる指先から、ヘンナは男のつめを見た。

 ヘンナの視線に気づいた男はぱっとクローから手を離して、背中に指先を隠す。そして、口の片端だけ持ち上げた歪に笑った。


「怖ぇんなら帰りな、お嬢ちゃん。泣いて叫んだって誰も助けてくれやしねぇんだから、ケツ見せてとっとと逃げてくれりゃあ俺も面倒が……」

「手をちゃんと見せてください」


 身を乗り出して、男の隠した腕をヘンナは引っ張った。突然の接近に、男ははっと息も忘れている。間近でみると顔色に血の気がないということにヘンナは気づいた。もう一度、できるだけやさしく穏やかにお願いをした。


「手を、見せてくれますか。お願いします」

「あ、ああ……」


 丸太のように太い筋肉質な腕が、一般的女性の腕といった細さのヘンナの手で簡単に引っ張り出される。隠されていた腕の肘あたりを持ち上げて、カンテラの光にかざしてよく観察する。

 男のつめはひどい状態だった。片方の腕の3本のつめが剥がれ、2本のつめが割れている。また、もう片方の腕のつめは全て血がにじんでいた。何よりも問題なのは、つめの色が白くなっていることだ。


「お、おい、お嬢ちゃん、自分で見といて、気持ち悪いからって吐くんじゃねぇぞ……!」


 強い言葉を出しながら、男はヘンナから逃げるように上半身を反らしていた。ヘンナは両手でやわらかく男の腕を包んで、揺りかごのようにゆったりと揺らした。


「大丈夫ですよ、気持ち悪くないです」


 ぽかんと男が口を開いた。

 白いつめとは、すなわち魔力が通っていない死んでしまったつめだ。この世で最も忌み嫌われるつめの色で、故人は生前のつめと同じ色の手袋をはめられて棺桶に収められる。

 魔力を使いすぎても、つめはくすんで灰色になるが白にはならない。魔力壊欠症と呼ばれる奇病にかかった者、罪を犯して魔力を全て引き抜かれる刑罰に処された犯罪者、また事故などによって手に強い刺激を受けて魔力の流れがおかしくなった者など、少なくない数の白いつめの者は存在する。しかし、白いつめを持った生者は死体が動いているかのような扱いを受ける。

 それでも、ヘンナの手の中には生きている人間の温かさがあった。


「もう触ってしまっていますけど、直接手で触れてもいいですか。手袋越しだと魔力の流れが読みづらくて」

「あんたの、好きにすればいい」

「ありがとうございます。ちょっと腕の包帯をほどかせてくださいね」


 ヘンナは床に膝をついて、男の腕を伸ばし、ゆっくりと肘から手のひらまで指でたどっていく。皮膚の下で魔力は弱々しくも流れているようだったが、途中で動きが狂ったように逆流している。そのせいで腕の途中で魔力が詰まっており、そのあたりを軽く指で押し込むとぐにっと固まりのような小さな感触が返ってきた。外部から刺激によって魔力の流れが狂ったせいでつめが白くなっているが、初期状態である今なら色を元に戻せる。

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