第21話 妖精は鉄がお嫌い
マクリンにはお風呂に入ってもらい、ヘンナは食器を洗う。しゃわしゃわとお風呂場から水の流れる音が響き、久々に自分以外の人の気配を感じながらヘンナは片づけをした。
「あの、お風呂ありがとうございました」
「はぁい。準備できてるから、ソファに座ってくれるかしら」
お風呂から上がったマクリンが戻ってきて、つめ研ぎの準備を終えたヘンナは手招きをした。ぺたぺたとスリッパを鳴らしながら近づいてくるマクリンの髪はまだ少し濡れている。
ソファに座らせて、ヘンナはバスタオルを広げた。
「湯冷めしたらいけないわ。ブランケットも肩からかけてね。ちょっと髪を乾かすわね」
「え、あの、自分でやります」
「嫌じゃなかったら、私に任せてほしいわ。これも施術の一環と思ってくれればいいから」
タオルでぱさぱさと優しく髪を乾かしていると、最初は肩に力が入っていたマクリンがほうっとリラックスしていく。気持ち良さそうにして、膝の上でロウソンを抱っこしていた。頭から首筋、肩、腕へと軽くマッサージをしながら髪を乾かしていく。
「さて、それじゃあつめのお手入れをしましょうか」
「……あ、はいっ。ごめんなさい、ちょっと眠っていました」
「リラックスできてよかった。それじゃあ、手を出してね。手袋はあったほうがいいかしら」
「手袋は、なくても大丈夫です」
「わかりました。それじゃあ、始めるね。……ロウソン危ないから移動してね」
お願いすると、ロウソンはマクリンの膝の上から下りて床の上で丸くなる。それを確認して、ヘンナは折り畳み式テーブルの上にマクリンの手をやさしく置いた。まずサントマ聖水で清めながら状態をもう一度確認する。つめは削りすぎて整えるところがない。また、ささくれがあるのが気になる。刃先が丸いはさみを取り出して、そっと指を引き寄せる。
「まず、ささくれをきれいにするわ」
「はい。ちゃんとオイルを塗っているはずなんですけど、すごく最近ささくれができちゃって」
「気になって何度も指を触るのが原因かもしれないわ。あと、オイルが肌に合わなかったのかも」
ぱちぱちとささくれを切っていく。切ること自体はすぐに終わったが、手全体が荒れているところが気になる。ヘンナは、マクリンに使っているハンドオイルやクリームを聞いた。
「えっと、私が買えるものの中で一番良いやつなんですけど、もっと高いやつのほうがいいんですか?」
「いいえ。値段は関係なく、どれが一番肌に合うかが重要なの。例えば、貴族の方はアンブロシアの蜂蜜で手をケアする方法を好むんだけれど、それで手が荒れる方は多いらしいわ」
「えっと、それってすごく高級な蜂蜜ですよね」
アンブロシアの蜂蜜とは、限られた環境で僅かな数しか咲かない稀少な幻想花の蜜だけを集めさせた蜂蜜である。その味はえもいわれぬ天上の調べが耳に届くほどのもので、一舐めすれば重病患者も踊るという。しかし、それが肌にいいとは限らない。
「アンブロシアは効能が強烈すぎて、肌が過敏に反応してしまう人がいるの。何度も手入れに使うものじゃないわ」
「それで、ヘンナさんはうちの蜂蜜を使ってくれてるんですか?」
「ええ。いつもお世話になっているわ。ありがとう」
「いえ、こちらこそご贔屓にしてもらってありがとうございます」
お互いにお礼を言い合って、目と目を合わせて笑った。何だかとてもおかしかった。
笑いが収まってから、ヘンナは保湿クリームを取り出した。今店に置いてある中で一番配合物が少なく、良い香りもまったくしないが、保湿するだけなら十分だった。ヘンナは自分の手のひらでクリームを温めて、マクリンのほっそりした手に広げていった。
「違和感があったらすぐに言ってね」
「だいじょうぶです」
手首から手のひら、手の甲へとやさしく塗っていく。特に乾燥しがちな指と指の間をくるくると指で円を描くように、つめが短くなりすぎた指先は念入りにする。つめが短すぎると、保護するものがない指先に傷ができて、そこからまた菌が入って腫れる可能性もある。つめの形が変になる原因になりやすい。
「マクリン、つめは毎日伸びるわけじゃないから、やすりをかけるのは一週間に一回ぐらいでいいわ。指の先が見えないぐらい長さね」
「はい」
「それと、つめの形と表面は同じやすりで研いたかしら?」
「えっと、はい。つめ研ぎ屋さんでしてもらったように、持っていたやすりで」
つめの表面のベッド部分に筋が浮いて、それを平らにするためにやすりをかけることもある。しかし、あまりやりすぎるとつめが薄くなってしまう。薄くなるということは、つめが傷つきやすくなることと等しい。
「つめの表面は、つめの先に使うものとは違うのを使った方がいいわ、スポンジのもの。表面は一月に1回ぐらい。やりすぎると薄くなりすぎるの。それから、甘皮も一月に1回がいいんだけど……」
手にしっかりとクリームを馴染ませ終わり、次につめの根元、甘皮を処理しすぎた部分に魔法薬のエイドウォーターを垂らす。エイドウォーターはすぐにぱっと乾く。その上から、保護するようにフラドックスの魔種オイルをつめの一本一本丁寧に塗り込んでいく。
「甘皮は処理が難しいの。強くやりすぎるとつめの根元が傷ついて、うまくつめが生えてこなくなっちゃうから。だから、甘皮はできればつめ研ぎ屋に任せてほしいわ」
「そうなんだ。私、間違えてばっかりだったんですね……」
「今日覚えればいいの。すぐにきれいなつめになるわ。さて、ベースコートを塗ってもいいかしら?」
「あ、お願いします」
つめをオイルで保護してしまえば、次は塗る行程に入る。サントマ聖水でもう一度つめを清めてから、クリアカラーのベースコートを刷毛で塗っていく。これを塗るだけでも、つやっと表面が光って印象が変わる。
全てのつめを塗り終わって、しかしマクリンの顔は浮かなかった。
「やっぱり、私のつめの色って白っぽいですよね。光にかざすと余計にそう見えちゃう……」
たとえ同系色だったとしても、自分の色より濃くもしくは薄く塗るということは違法行為として認められていない。ただ、自分のつめの色を偽りさえしなければいいということで、幾つかつめを飾る方法が存在する。
ヘンナはさっき店の作業机から取ってきたばかり小瓶を取り出した。ほとんど新品同然の状態で、使ったのは練習で塗ったときぐらいだった。
「マクリン、これなんてどうかしら?」
「何ですか、それ?」
「フェルムネイルと呼ばれるものなの。これには、妖精の粉が混ぜられているわ」
十年ほど前に金粉入りのラッカーが発明された。これを塗るのは違法なのではと革新を厭う派閥からは反対の声が上がったが、色さえわかれば問題なしとされて使われるようになった。これは、その金粉を妖精の粉に変えた新商品となる。金粉のときはそれほど話題はならなかったが、妖精の粉へと改良されて若者を中心に人気となった。妖精の粉は貴重で高価だが、そのちょっと背伸びした価格も相まって、憧れの商品となっている。
ヘンナはまだ誰かに依頼をされたことはないが、勉強のためにと買って、扱い方を一人練習していた。それがつい役立つ日がきた。
小瓶の中を覗き込むマクリンのために、ヘンナは小瓶の中をぐるっとかき混ぜ、たっぷり刷毛につけて光にかざした。反射して、ぽうっと温かな光が灯る。わあっとマクリンが声を上げた。
「きれい! だけど、こんなにすごいものを使ってもらってもいいの?」
「マクリンのお父さんから、宿泊代ということでお金を預かっているの。その予算に十分収まるから安心して」
「えっと、じゃあお願いします」
差し出された手をそっと引き寄せて、つめに刷毛を滑らせる。まず最初に薄く全体に塗り、次にたっぷりとつけて妖精の粉をたくさん塗る。まず一本の指に塗ってから、次の指にはいかずにポケットから棒を取り出した。何の変哲もない、ただの鉄でできた棒だ。
フェルムネイルが人気商品となった理由は、つめに塗ったときの美しさにある。金粉よりも美しく光るということもあるが、何よりも妖精の粉の特性がつめを飾るのに役立つ。妖精とは鉄を苦手とする生物であり、それは妖精の粉も同じことが言える。
ヘンナが鉄の棒をつめに近づけると、逃げるようにさあっと妖精の粉が逃げていく。こうしてつめの上に模様を描くことが可能だった。
「どういった模様がいいかな? まっすぐ真ん中に線を入れたり、斜めだったり、十字にしたりもできるわ」
「ええと、その、どうしよう……お任せします」
初めての経験で、マクリンもどうすればいいかわからないようだった。何度もまばたきして、まつげが忙しなく揺れている。
ヘンナは少し考えて、マクリンのつめの色を際立たせるように、縁取るような模様にすることに決めた。完全に乾燥して固まってしまう前に、鉄の棒をうごかして形をつくっていく。
「うん。あとは乾くのを待つだけよ」
十本全ての指にフェルムネイルを施して、最後に上からトップコートを塗れば完成になる。ふわふわとした妖精の光がつめの先に留まっていた。何度も何度も手を左右に動かして、マクリンは自分のつめに夢中になっていた。
「すごい、きれい……」
「うん。かわいい上にもっときれいで素敵になったわ。胸を張って会いに行けるね」
「はいっ! 明日っ、一緒に町を……あ」
もう明日が待ちきれないというようにぱたぱた動かしていたマクリンの両足が、何かに気づいて止まった。何事かとヘンナも片づけの手を止める。わふんと足元で眠っていたロウソンも不思議そうに顔を上げた。
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