第15話 声を残して消えた

 男と2人だけの静かになった室内で、ヘンナは迷いなく手を動かした。4本目のつめに取りかかろうとしたところで、急にぐっと男の手に力が入ったのがわかった。指が強ばり、棒のように真っ直ぐ伸ばされていて塗りにくい。じっとりと手のひらにも汗をかいているようだった。ヘンナは一旦手を止めて、リラックスさせるために手首を握って揺らした。


「どうしましたか? 痛みが出てきましたか?」

「い、いやあっ? 改めて、お嬢ちゃんと二人きりってのは妙なことになってんなと思ってよぉ」

「そうですね。私も、こんなふうに連れてこられるなんて思ってもみませんでした」


 男の手首の添えた指で脈を計るとひどく早くなっているようだった。ふらふらと頭が揺れて落ち着きがなく、陰でわかりにくかったが顔が赤い。怪我の影響で熱が上がってきたかもしれないと考えて、ヘンナはすぐにつめを塗る作業を終わらせることにした。


「もうちょっと我慢してくださいね」

「別に嫌ってわけじゃねぇんだけどよぉ。歳の差ってもんもやっぱ気になんだろぉ」

「はい、終わりましたよ。体勢がつらいようであれば横になってくださいね」


 だんだん舌も回らなくなり、しゃべっている内容も不明瞭になっている。ヘンナはささっとつめを塗り終えると、そっと男の肩を押した。すると、ヘンナの弱い力で簡単にベッドに倒れ込んでしまう。まだ乾ききっていないつめがシーツで擦れないようにと、ヘンナが男の両手を持ち上げて胸の上に乗せた清潔なタオルの上に乗せていると、男が譫言のようなものを呟いた。


「婚約も済んでねぇうちに、手に触れるなんてできねぇ……」

「あ、失礼しました。そういえば素手のままでしたね」


 最初に魔力の流れを正すために直接手で触れたが、つめを塗るときにもう一度手袋をすべきか尋ねるべきだったかもしれないとヘンナは反省する。

 すぐに手を離したヘンナに、額に汗をびっしりとかいた男が身体を起こそうとする。


「別に、俺ぁやぶさかでもねぇんだ! でも世間の目ってもんもあるし、せっかくなら円満に結ば……がっ!」

「ロウソン、怪我をしている人にあんまり乱暴しないであげて」


 ずっと男の腹の上に居座って生気を分け与えていたロウソンが四足ですくっと立ち上がり、起き上がろうとした男の顎にぼすんとのしかかった。慌ててロウソンを抱き上げると、体力の限界だったのか男は意識を失ってベッドに倒れ込んでいた。

 ヘンナがロウソンの顔を覗き込むと、眠たそうにこくりこくりと頭を揺らしている。生気を与え続けてつかれたのだろう、頭に咲いていた花もしおれてしまっていた。


「本当に、その子は賢い子だな」

「あっ、お帰りなさい」


 お茶を淹れたカップとクッキー箱をお盆に乗せたクローがいつの間にか戻ってきていた。クローはお盆を一旦サイドテーブルに置くと、すっかり冷たくなった洗面器の水にタオルを浸して力強く絞り、そしてそれを眠っている男の額に投げつけるようにばしんと置いた。

 驚くヘンナに、クローが涼しい顔をしてまたお盆を持ち上げた。


「この部屋ではお茶も飲みづらいだろうから、一旦出よう」

「あ、わかりました」


 エプロンを外し、広げていたつめ研ぎ道具を鞄の中にしまい込んで、ワンピースのポケットに頑張ったロウソンを寝かせて、ヘンナは立ち上がった。タオルや洗面台はそのままでいいと言われたので、たたんで置いておくだけにする。


「それじゃあ、お大事にしてください」


 眠って聞こえていないだろう男に囁き、ヘンナはクローと一緒に部屋を出た。薄暗い廊下で、クローが深々と頭を下げた。


「うちのが失礼した。私も、あの場に残るべきだった」

「ああ、いいえ。こういうのは慣れていますし、ロウソンもいたから大丈夫ですよ」

「君は、気づいていたのか」

「それは、もちろん。つめ研ぎ師は手に触れますから、どうしてもそういう勘違いをされることは多いんです。あの人は怪我の影響で熱も出ていましたし、意識が朦朧として余計に変になったんですね。元気になれば忘れます。ロマンスに発展するような美しさとか、私にはありませんから」


 異性のつめ研ぎをすることがあまり推奨されないのは、そういう恋愛的勘違いや醜聞、事件を起こさないためだ。しかし、つめ研ぎ師は誰でもなれるものでもなく、庶民向けのつめ研ぎをする人間は少ない。だからこそ、ヘンナは使い魔を護衛として男女どちらのつめも請け負っていた。

 大丈夫だと伝えると、クローはそうかとも言わずに複雑そうな顔をしていた。ヘンナは首をかしげながら、彼の手に持っているカップを手のひら包むようにして持ち上げた。


「せっかくのお茶ですし、ここでもらっちゃいますね」

「こんな場所では埃っぽいだろう。どこか部屋を探して座るところを……」

「いえ、すぐに帰ります。あの人も熱を出しているようですし、クローさんも心配でしょう」

「……正直、助かる」


 クローの率直な言葉に、ヘンナもカップの中身をぐいっと飲み干した。思わぬ大仕事をしたせいか、気づかずにヘンナののども渇いていたようだった。

 カップをお盆に戻すと、クローは廊下に置いてあったキャビネットの上にそれを置いた。


「なら、途中まで送ろう。この建物からの出方もわからないだろうからな」

「じゃあ、お願いします」


 クローに先導されて、また暗い廊下を歩いていく。また同じような道で戻るのかと思えば、なぜか階段を降りて地下へ下っていった。


「この時間なら、こっちのほうが早いんだ」


 下った先の重厚な扉を体当たりするようにクローが開くと、そこにはひんやりとした石造りの空間だった。ずっと向こうまで広がっていようだが、クローが魔法で出した火で照らしても先が見通せない。そろりと進めた靴音がかぁーんと反響した。


「特に何もないはずだが、足元には気をつけてくれ」

「わかりました」


 暗い中を慎重に歩いていると、慣れているのかどんどん行ってしまうクローと距離は離れてしまう。少し早足で追いかけていくヘンナに、足音で気づいたクローが歩調を緩めて振り返った。


「すまない。足元に気をつけろと言った口で、急いでしまった」

「いえ、早く戻りたい気持ちもわかりますから」

「あんなおっさん、熱が出ても一人で平気だとは思うんだが……」


 そうは言いつつも、昨日会ったばかりのヘンナを連れてくる程度には心配していたことはわかっていた。

 靴音ばかりが響いて、どれぐらい進んで、どれぐらい時間がたったのかも曖昧だった。前を歩く背中をヘンナが眺めていると、ぽつりと声がかけられた。


「今日は、本当に助かった。色だけ塗ってもらおうと思っていたんだが、まさか治療までしてもらえると思わなかった」

「治療といっても、つめに関してだけです」

「それをしてもらえるだけでもずいぶん違う。白いつめのままだと、下手に移動もできなくなるからな。……君の秘密は、誰にも言わないと約束する」


 そこで言葉を切ったクローがすうっと息を吸った。目の前で、自分より広い肩が少しだけ上下するのをヘンナは見た。ちょっとの沈黙の後、クローが言葉を吐き出した。


「それから、すまなかった」

「それは、どれのことですか?」

「いろいろあるが、一番は今日のことだ。君を連れてくるときに、既に罪を重ねていると言ったこと。つめ研ぎ師としての君を貶める最低な言い方だったと思う」

「それについては、謝ってもらわなくてもいいんですけど……」


 罪を重ねていると言われて傷つかなかった言えば嘘になるが、指摘されたことは事実だ。いつも、こんなことをしていいのだろうかと思いながらヘンナはつめを塗っていた。誰にも寄り添えず、ただ受け継いだ仕事をこなしている。

 だから、そこを謝られても困ってしまう。ヘンナは誤魔化すように話題を変えた。


「そういえば、昨晩クローさんが置いていかれたお金が、うちで提示していたものの十倍だったんです。多かった分をお返ししたいんですけど、ちょっとだけうちの店に寄ってくれませんか?」

「迷惑料も込みだ、受け取ってくれ。こっちこそ、今日の分の支払いをしないといけないんだが、今そんなに手持ちがないんだ。後日届ける」

「必要ありません。十倍もらっていた料金から差し引いて、お釣り分をちゃんとお返ししますから」


 そうなると幾らになるかとヘンナが頭の中で計算していると、表情の見えないクローがため息だけを響かせた。


「君は、もう少し考えたほうがいい。そのままだと自分の身を削ることになる」

「お金のことでしたら、本当に適正料金です。困っている人がみんなお金を持っているとは限らないので少しお手頃価格に設定していますが、その分材料費を努力して抑えています」

「そういうことではなく、君はもっと自分のことを大切にするべきだと言いたいんだ。さっきも、あのおっさんを蹴ってやったってよかったんだ」

「本当に危なかったら、私だって蹴るぐらいします」


 お金の話をしていたはずなのに、なぜかころころと話が変わっていってしまう。ヘンナが混乱していると、目の前にあったクローの肩ががくんと力が抜けたように落ちた。


「……違う、責めたいわけじゃない。私は、君が能力に見合った正当なお金を受け取って、もっと自分を大切にしてほしいんだ。でも、これはこんなところに君を連れてきた私が言うべきことじゃなかった」

「お気持ちはありがたいです、本当に。でも、大丈夫ですよ。私は、これでも結構毎日楽しく過ごせていますから」

「ああ。……ははっ、何だかフラれた気分だ」


 笑い声がわんっと響く。その言葉にびっくりして、ヘンナはえっと声を漏らしかけて、咳払いをして冷静を装った。

 そもそもヘンナは、自分は地味で目立たない存在だと思っている。昨日今日会ったばかりの人に好かれるほどの可愛げはない。仕事柄勘違いされることもあったが、そもそも立派なのは祖母や母であって、自分は聖女のような考えを持って仕事をしていない。つめが綺麗なのはただの仕事柄。

 だから、これはからかっているのか、軽口なのか、ちょっとしたお世辞なのか。こちらを見ない後頭部をヘンナは見上げた。不意に前を向いたままクローが話し始めた。


「君の手は、仕事をしているときらきら光る」

「え」

「仕事をしているときの君の手を、つい目で追ってしまう。まっすぐで、やさしく、思いのほか力強くしっかりしていて、よく動く働き者の手をしている。君の手はきれいだよ」

「あ、えっと……」


 ぷしんと弾けるような音が響いた。ポケットの中で小さくなっていたロウソンがくしゃみをした音だった。ヘンナは慌てて鞄から小さいタオルを取り出して、ポケットの上にそっと被せる。

 何事もなかったように、頑なにこちらを見なかったクローが振り返った。


「ここは寒かったな。もうすぐ着く」

「あ、はい」


 その言葉のとおり、すぐに上へと続く階段があった。上りきった先は天井で、四角い隙間から光が漏れている。クローが肘で押し上げるように天井の扉を開けて、上へと出た。そこは保存庫だった。墫いっぱいのりんごや玉ねぎ、新鮮なフルーツの香り、ぴりっとくる香辛料の匂いも漂ってくる。カーテンで仕切られた向こうでは、がやがやと人影が世話しなく動いて働いている姿が見える。


「こっちだ」


 小さい声に促されて、働いている人たちとは反対側にある扉から外に出る。そこは、狭い路地だった。抜けた先で人が歩いている通りがある。


「それじゃ、元気で」


 かけられた言葉にハッとしたが、そこにいたはずのクローの姿はもうなかった。裏路地でヘンナは一人、取り残されたようにポツンと立ち尽くしていた。

 わからなくなったら自分の手を見なさい。そう教えたのは、ヘンナの祖母だった。手にはいままで経験した全てが刻まれているから。

 自分の手をヘンナは見下ろした。


「平凡な手……」


 つめ研ぎ師として手入れはしているけれど、何か成し遂げたわけでも、手に入れたわけでもない、普通の見慣れた手だ。

 仕事をしている手をきれいだと言われるなんて、思ってもみなかった。


「ちゃんとお礼を言っておけばよかった」


 何度も自分を守ってくれた大きな手を思い出して、少しだけどこかが寂しい。もう二度と会えないような気がして、ヘンナはまだその場を動くことができなかった。

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