第17話 お出迎え準備

 グローヴはふっと視線を反らして、かたんと中身が飲み干されたカップを作業机の上に置いた。そして大口を開けて欠伸をする。


「ま、いい。危なっかしいのは、昔からだ。何も言われなくても、見とけばいい」

「それは……そうなのかな。私も気をつけるね」

「お前は、気を抜け。……ああ、でも、そうだな。しばらくは、気を張っておけ」


 いつも静かに話すグローヴが、ちりっと針のようなものを言葉に含ませたことに気づいた。他人から見ればいつもどおりではあるが、ヘンナから見れば明らかに苛立っているのがわかった。

 グローヴは机に持たれかかって浮かせた片足を、ぶらぶらと揺らす。こつこつと靴の踵部分が机にぶつかる音が響いた。


「外から来たのが、裏賭博を始めた。貴族相手で、こっちはそんなに関係なかった。だが、そこからだんだん、性質の悪いのも引き込んで、何かやってる。はっきりとわからないが、空気の流れが良くない。……一応気をつけろ」

「裏賭博って、私は絶対関わらないとは思うけど。うん、でも覚えておくね」

「そうしろ。うちのじいさんも、気にかけてる」


 不穏な会話に一旦区切りがつき、ヘンナは部屋の壁にかけてある時計を見た昼を少し過ぎている。

 ヘンナは椅子から立ち上がって、ロウソンがすっかり飲んでしまったカップを、机の上に置かれたままのグローヴのカップと一緒に部屋の流しのところへと持っていった。ぱたぱたとその後ろをロウソンも追いかける。


「そろそろ帰らないと。……グローヴ、洗剤とスポンジは?」

「洗っていこうと、するな。置いていけ。そのまま帰れ」

「じゃあ、お言葉に甘えて」


 カップを流しに置くだけにして、ヘンナは鞄を肩にかけた。お昼をまだ食べていないので、店に戻る途中でリュシーのところのパン屋さんに寄ろうと決める。部屋を出る前に、振り返った。


「グローヴもちゃんとお昼食べてね。リュシーが最近顔見てないって心配してたよ」

「あそこ、苦手だ。パンはおいしいけど、リュシーも母親も、俺みたいなのに構い過ぎだ。眩しすぎて、やってられない」

「今度来るとき、パン買ってから来ようか?」

「……いい。ちゃんと、自分で買いにいく」


 ひらひらと手を振るグローヴに手を振り返して、ヘンナはロウソンとともに部屋を出た。そこから一本の廊下をまっすぐ進んで、カーテンを開いて外を出る。そこは、職業人専用の革製の手袋が並んでいる店だった。ちょうど客のいない時間帯で、カウンターで暇をしていた馴染みの店員がヘンナのために入り口の扉を開けた。


「お疲れ様です、お嬢さん。またのお越しをお待ちしております」

「はい、また来ますね」


 店を出て、ヘンナは少しだけ早足になって帰りの道を歩く。人通りの少ない道なので、ロウソンも一緒にぱらぱたと小さな四つ足を使って駆けていく。

 今日は、夕方から訪ねてくる子がいる。それまでに、少し準備をしておきたかった。

 途中で寄ったパン屋で、接客中だったリュシーの母のブールがにかっと歯を見せて笑った。この笑顔が好きでついつい店に寄ってしまうという常連客は多い。


「いらっしゃい、ヘンナちゃん。さっき麦パンが焼けたばかりなんだよ」

「じゃあ、麦パンをお願いします。それから、こちらのレモンケーキも2つお願いします」

「はいよ。すぐに袋に入れるからね」


 カウンターの中に収められているパンをささっと紙ナプキンで包んで、一つずつ紙袋に入れてくれる。はいと差し出される紙袋は温かく、ふわりといい香りがした。お金を渡して、またねという声に見送られてロウソンと一緒にすぐそこの我が家へと帰る。


「ただいま。……ロウソンはおかえり」

「わふわふ」


 誰もいない家に戻って、ヘンナはロウソンと互いにただいまとおかえりを言い合った。

 肩にかけていた鞄を下ろして、幾つかの仕事道具を取り出して片づける。それが終わったら、店部分の施錠をきちんと確認して、カーテンも閉じて、パンの袋を持って奥の居住スペースへ移動する。

 ぱたぱたぱたとロウソンが先に階段を上って2階へ上がっていく。一階は店にほとんどのスペースを取られているので、2階が主な生活スペースとなる。1階は保存庫や書庫、物置スペースしかない。ヘンナが階段を上っていくと、ロウソンは先に窓際のクッションの上に腰を落ち着けていた。その近くで、鉢で育てている幾つかのハーブがわさわさと葉を生い茂らせている。


「ロウソン、どのぐらいお腹空いてる?」

「わふふん」

「ものすごくね。じゃ、パンだけ先に食べててね」


 さっき買ったばかりの麦パンを一枚ロウソンのお皿に出しておく。あとは昨日の晩につくっていたお鍋の中のポトフを温めることにする。少し量が少なくなっているので、キャベツを何枚かちぎって足して、水を足してもう一度火にかける。湯気が出てきて少し温まってきたら、イモやキャベツ、豚肉とロウソンの分をお皿に引き上げる。


「ロウソン、温めたポトフも持ってきたよ」

「わふわふ」


 ライ麦パンはすっかり食べてしまったロウソンがぱたぱたと尻尾を揺らす。

 ロウソンの分を出し終えたら、火にかかけたままのポトフの残りに黒胡椒など調味料を入れて味を調整する。ぐつぐつと全体が温まったら、皿にポトフを入れて、上から削ったチーズもかける。

 お皿を持ってヘンナが席につくと、ロウソンがわふと鳴いた。見ると入れておいたポトフにまだ口をつけていなかった。


「待っててくれてたのね。それじゃ、いただきます」

「わふん」


 がつがつとロウソンが勢いよく食べるのを見ながら、ヘンナもスプーンを手に取った。ほくほくのイモには野菜のエキスがたっぷり出たスープの染み込んでていてほんのり甘い。できたての麦パンを一口かじるとやわらかい食感とともに香ばしさが口いっぱいに広がった。

 ヘンナはパンを一口サイズに千切りながら、ロウソンに今日のこの後の予定を伝える。ちぎったパンを、溶けたチーズとスープにからめて食べると、じゅわとろと広がるチーズがおいしい。


「夕方、アリスタイオス農園のところのマクリンが来るからね。ロウソン、マクリンのこと覚えてる?」

「わふん?」


 あっという間に食べ終わったロウソンが、クッションの上で寝そべりながら不思議そうに首をかしげる。マクリンと最後に会ったのは、何年も前だ。町に出てくるついでに農園の蜂蜜を届けにきた父親と一緒に、その背中に隠れて挨拶をした小さな女の子の姿しかヘンナも知らない。きっと、今は大人になっている途中の少女だろう。

 今回、いつもの蜂蜜の定期配達と一緒にヘンナに宛てた手紙がついていたのだ。一枚は農園主の父親から。娘が町に一人で出ると言って聞かない。心配だから、信頼できるヘンナの家に数日泊めてもらえないかということだった。そして、もう一枚は娘のマクリンから。どうしてもどうしても一人で町に出たい。父親が、ヘンナさんのところに泊まるんじゃないなら、自分がついていくと言っている。それだけは、つめが割れても嫌だ。だからどうか泊めてほしいということが切々と小さな細い字でつらつらと書かれていた。

 特に断る理由もなかったヘンナが了承すると、ありがとうという手紙と幾らかのお金が送られてきた。


「マクリンが3日ほどうちに滞在するの。ロウソン、親切にしてあげてね」

「わふふん……」


 お腹がいっぱいになったらしいロウソンはうとうとと頭を揺らしていた。その穏やかで平和な姿を眺めながら、歓迎のための部屋の片づけや食事の準備などにヘンナは思いを巡らせた。

 我が家に泊まってくれるお客さんがやってくるということで、ヘンナはわくわくしていた。久しぶりに会う女の子がどんなふうに成長しているのかを見るのもとても楽しみにしていた。


 だから、まさか扉を開けた瞬間に泣き顔と対面するなんて思ってもみなかった。


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