第49話 聞かれた。
「ここからは医師としてでもなく、琴音の母としてでもなくお聞きしたいのですけど……」
少しの沈黙があった。俺がよく使ってしまう「耳障りのいい言葉」を探していた。お母さんは軽く握られた手で形のいいあごに触れた。
その仕草が琴音を連想させる。似てて当たり前だ。母娘なんだ。大人になった琴音はこんな感じになるんだろうなぁと何となく考えていた時だ。
「はい」
「梶さんはその方と経験は?」
「ないです、その誰とも」
「そう。その方を……元彼女さんを今どう思ってます? 例えば憎いとか、嫌いとか……」
「よくわかりません。その……少しも憎くない訳じゃないですけど、顔も見たくないとかはないです。正直ふわふわしてて。許したい気持ちも少なくなくて」
「まだその好きなの?」
「わかりません。完全に嫌ってないですけど、なんて言うか好きでいるのに不安があったりで」
「好きでいるのに不安? もしやり直してもまた繰り返されるってこと?」
「どうですかねぇ……実際はどうなるかわかりませんが、心配し続けると思います。それでもその事をきっと言えない。そういう性格なんです。いい人だと思われたいのかも。それか嫌われる覚悟みたいなのが無いのかもです」
俺は聞こえない程度の溜息をついた。自虐っぽくなっていることを反省した。琴音のお母さんも医師である前に人だ。言われて困ることだってある。娘の彼氏の自虐なんてどう反応していいかわからないだろう。
だけど、不思議とお母さんはニコリと笑って答えた。
「でも、梶さん。手前味噌になりますが琴音ちゃんなら、そういう心配は皆無な娘ですよ。1人娘ですが、婿養子なんて難しい事いいませんし(笑)」
「それは、はい。そう思います。その……出会った頃は口喧嘩ばかりしてました。でも、今回のことがあって本当に色々言葉に出来ないくらいして貰って……」
場の空気を和まそうとしてくれてる。俺自身も実際琴音ならそんな心配いらないと思う。まぁ、志穂の時も実際そんな心配してなかった。信用しきっていた。いやいや、どうしても気持ちが否定的になってダメだ。
1度寝取られたからって、この先違う彼女になっても寝取られるとは限らない。いや、寝取られないとも限らない……ダメだ。思考が負の周期に入ってる感じだ。そしてまたしても察してくれたのか、お母さんはこの話題を突然打ち切った。
「梶さん。ひとまずショックだった話はここまでにしましょう。あまりこんな話を続けても気が滅入るでしょう? 何がショックだったか自分で理解出来てる。それだけで十分だと思う。ひとりで抱え込まないでいいんだってだけ理解して欲しい」
「わかりました。その、努力します」
「さてと……」
琴音のお母さんは座ってたソファの背もたれに軽く身を任せ、顔の前でそっと手を合わせた。ある意味ここからが本番。まず原因の洗い出し、そしてその原因と向き合う。そして現状の精査。
つまり、全然ダメなのかそれとも部分的に大丈夫なのか。そして部分的に大丈夫なところを広げていけば、やがては解決みたいなのが理想だろう。それは頭ではわかっているのだけど、うまく行かない。だから、お母さんの貴重な時間を分けて貰って相談しているのだ。
「改めて聞くけど、そのうまく行く時のイメージある? それとも全部ダメ?」
「えっと……」
「ごめんなさいね、言いにくいわね。その……特定の相手を想像するとかいう事なんだけど。最初どんな時に気付いた?」
「はい。わかります。その……気付いたのは朝です。起きた時、いつもならその……反応してるのにって事が何日か続いて……ちょうど『学校の裏サイト』のことでごたごたしてて、疲れたのかなぁ……って最初は思ってて」
「でも違った?」
「はい。その……ちょっと元気なさ過ぎかなぁって気になって、無理やりその……」
「自分でしようとしてうまく行かなかったと?」
「はい。疲れてるのかなぁ、精神的なのかなぁになって焦って試しました。色々……」
「何を試したか聞いていい?」
「はい。動画とか、その写真とかです。普段はそんなに見ないんですけど」
「うまく出来た?」
「ダメでした。その僕には姉がいて、ノックから入ってくる時間が速いんです。だから動画だとかだと焦るというか……だからうまく行かなかったんだと思います」
「そうね、そういうのもあると思うわ。焦るとうまくいかないわよね。それでいつも通りしてみたの?」
「はい。そうなりますが……いつも通りでは」
「うまく出来なかった?」
「いえ、いつも通りのイメージはそのしたくなかったというか……」
「間違えてたらごめんなさいね。そのいつもは元の彼女さんをイメージしてたの?」
「そうなります」
「ん……そうなると、嫌よね。それで色々イメージしてどうだった?」
「その、慣れなんでしょうか。前のイメージだとうまく反応出来ました。だけど、嫌というか……そういう感じなんで無理やり他の人で想像したんです」
「うん。ダメだった?」
「はい。だけど、どうしてか1人だけうまくいって。普段仲はいいんですけど、そういう関係じゃないっていうか、そういうの考えた事がない人っていうか……」
「理由があるんじゃない?」
「はい、前の日その娘が冗談で僕の膝の上に座って来て……その時の感じというか、感触っていうか、髪の匂いとかが――」
その時。ガタンという音が聞こえた。俺はあまり気にしなかったが、琴音のお母さんの顔色を見て振り向いた。さっきまでの柔和な表情は消え、厳しい視線が入り口周辺に向けられた。
釣られて俺もその方向を見る。そこには足元に折り重なるように崩れた桜花、琴音、志穂の姿。誰もが居心地悪そうな表情をしていた。聞かれていたのか……
いや、今はそんなことはいい。3人の背後にひとり眼の淵に涙を溜めて後ずさりする関さんがいた。
聞かれた。関さんに。膝の上に座ったこと、感触、髪の匂い……本人ならわからないはずがない、関さんのことを言ってるって。目が合うと関さんは駆けだした。玄関に、一目散に。俺に追いかけない選択肢はなかった。
***
「はぁ……あなた達、なにしたか自覚ある? 悪戯じゃ済まないわよ」
知っていた。ダーリンがどんな内容をお母さまに相談するかを。私を信用して相談してくれたのも。あの時止めることは出来た。だけど、止めなかった。
知りたかった。ダーリンの悩みを、細部まで。知ってなにか出来ないか、それが知りたかった。わかりたかった。待てなかった。細部まで相談してくれるのを。待てなかった。
自覚はないけど、焦っていたのかも。それともダーリンが相談相手に自分を選んでくれたことに、有頂天になっていた。見事にその鼻はへし折られた。自分自身に。
斎藤さんが覗いてたからなんて、言い訳にもならない。あの時大声を出していたら、まだ相談の序盤。聞かれて問題ない場面だった。
問題はそこだけじゃない。関さんだ。ダーリンは関さんを傷つけたと感じている。まだ自分の心の傷が癒える前に、人の心配を抱え込まないといけない。
それは私が蒔いた種だ。どんな芽を出しどんな花をつけるかわからない。だけど、私はそれがどんな花かぐらいの想像は出来た。つぼみのうちに摘み取ることが出来たはず。しなかった。理由は……たぶん、私は私なりにショックだったから。
関さんなんだ……問題を解決する糸口を持つのは私じゃなく、関さん。ショックを受けながらも嫉妬した。
何が1番の理解者になりたいなの?
誰にも目もくれず関さんの後を追ったダーリンの横顔にチクリとした痛みが走る。
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